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2013年10月30日水曜日

岩槻・慈恩寺を訪ねて ・・・ 玄奘三蔵と法顕三蔵


 先週の日曜日に、以前から気になっていた岩槻(さいたま市岩槻区)の慈恩寺を訪れた。

 関心事の一つ目は、あの『西遊記』三蔵法師こと、玄奘の遺骨の一部が安置されている寺という事である。

 第二次世界大戦のさなかの1942年、南京の中華門外に駐屯していた日本軍稲荷神社を建立すべく丘を整地していたおり、石棺のなかの玄奘三蔵法師の頂骨を発見した由。

そしてその遺骨は蒋介石南京政府に還付されたが、1944年、その一部が日本へ分骨されたということである。

因みに、この頂骨は更に、1955年に台湾(蒋介石総統下の中華民国)へ、1981年に奈良の薬師寺へと分骨されている。

 

 関心事の二つ目は、岩槻の慈恩寺はどういう風景、風格をしたお寺かなというもの。

 いくら玄奘の頂骨があるとはいっても、当然、広大な大陸風土の西安慈恩寺とは趣を異にすることへの「思想準備」はできていたので、この点については大した驚きはなかった。

 しかし、週末にも拘わらず、参拝者は私のほかにたった一人。
 過度な期待は毛頭しないものの、寺全体はなんとなく寂れた感が否めない。


 
本写真は慈恩寺のHPhttp://www.jionji.com/)より
 
 
 
 
 加えて、意外だったのは、遺骨安置のいわゆる仏舎利塔が慈恩寺の境内にはなく、そこから1Kmほど離れた、周囲が田んぼの高台に建立されていたことである。

 車のNAVIに、裏慈恩寺と表示されていて、何のことかと思っていたが、この仏舎利塔のことだと、あとで分かる。


 

 

 興味半分に、西安慈恩寺との両方を並べてみると・・・


 そのスケール、周辺の自然環境等、受け取るイメージは全く違うが、仏舎利塔(大雁塔)と玄奘像との対比アングルは、結構上手くなく似せていることに感心する。

 




 
 

 
西安慈恩寺大雁塔と玄奘像(2010年4月撮影)
 
 
 


 そして、玄奘さんの顔かたちはどうか???
 

 
 
西安・玄奘像


    * 西安の玄奘像写真のZoomUp版が手元にないので、微細に検証はできないが、
       表情が大きく違うのが分かると思う。 
       岩槻の玄奘さんはやはり日本人的な顔つきをしている。 
       まるで、空海か誰かと見紛うぐらいだ。



 玄奘塔を参観したあとの帰り道を歩いていると、その道端にお地蔵さんに巡り会う。
なんとなく、玄奘像よりこちらの方がずっと、土地の人に愛され、その風土、文化にしっかりと根ざしているようなのが、対照的であった。
 

 やはり日本人には、唐人の玄奘さんよりお地蔵さんか!




 
 
 
 
 
《余録》
 
 
 その1:
 
  冒頭で述べたところの、1981年に岩槻慈恩寺から分骨された奈良の薬師寺へは、2010年11月に訪れているが、建物の風格といい、観光客の顔ぶれといい、なんとなくしっくりこなかった。それは、日本人にとって三蔵法師ならいざ知らず、玄奘では馴染みがない為だろうか??!

 

 
 
薬師寺 玄奘塔(2010年11月撮影)
 
 

 
 
 その2:
 
 
 この玄奘さん、日本では中国明代に書かれた長編小説『西遊記』の庶民浸透が深すぎるせいか、一種のアドベンチャー物語として有名であり、またスーパーマン的能力を発揮する「孫悟空」の主役的存在感があまりにも強すぎるために、この三蔵法師こと、玄奘三蔵が脇役に追いやられている為か、知名度が今一つの感。

 しかし、歴史上では彼こそ偉大なる開拓者であり、貢献者であるのだ。

 

 玄奘(姓は)は隋代に生れ。
 代の貞観3年(629年)、なんと27の若さで、天竺(現在のインド)での仏教求法のために国禁を犯して出国。西安から河西回廊を経て高昌国に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺に渡った。その行程は、荒漠たる熱砂のタクラマカン砂漠あり、万年雪の覆うパミール高原あり、ここを徒歩で横断することは車で以てしても容易なことではない。そしてナーランダ寺院で5年にわたり仏法を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て、貞観19年(645年)、膨大な経典を長安に持ち帰ったのである。 
 
 この遠隔地への、かつ長期の留学旅程は、これまたなんと、あしかけ17年という長期間である。そして、帰国後の人生はひたすら、経典の整理、翻訳に冒頭したというのだから、恐れ入る。現代人の我々からして、想像を絶するような生き様だ。
まさに脱帽もの! 

 

 こんな偉い玄奘さん、しかし、彼以上に凄い先駆者がいたこと、日本ではあまり知られていない。その人の名は法顕三蔵さん。姓は(きよう)、玄奘に先立つこと約230年前の東晋時代に、天竺への求法行脚に出かけているのだ。
   

    * この三蔵というのは固有名詞ではない。
     「玄奘塔にある玄奘とは三蔵法師のことである」なぁ~てもっとらしく言って
      いる人もいるが、三蔵とは、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶に
      与えられる尊称、すなわち職名である。
 

 法顕三蔵も行きは中央アジア経由という玄奘とほぼ同じルートを辿っているが、彼が凄いのは、天竺(インド)を旅した後、舟で師子国(スリランカ)渡り、さらにその後、インド洋を渡り、海路で中国へ漂着帰国したことである。インド、ジャワ等の東南アジアと中国との海洋交通、貿易はまだ発展していない5世紀の時代だ。
日本は飛鳥の前代の古墳時代の頃である。

 更に彼が凄いのは、399年に60歳余の老年の身で天竺へ徒歩で向かったことだ。

 全行程あしかけ13年をかけ、陸路の熱砂、パミールの凍土、海路の暴風雨をも乗り越え、412年、目的地の広州ではなく、青州長広郡(山東省)に漂着・帰国した。
その時はなんと、御歳70歳余のご老体。

 それにしてもなんと、強靭な肉体と精神の持ち主だろうか!まさに超人!

 

 私も、歳をとったな~とか、加齢でどうたらとか、言えたものではない。
偶々、『徒然草』第84段に法顕の記述があること、ネットで再認識見した。

これを見ると、超人もやはり人の子かと、安心したりもする。
 

 


第84段:法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、『さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を人の国にて見え給ひけれ』と人の言ひしに、弘融僧都、『優に情ありける三蔵かな』と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

【現代語訳】
法顕三蔵はインドに渡ったが、故郷の扇を見ては悲しみを感じ、病に臥せれば故郷の中国の食事を求めたということだ。その話を聞いて、『高僧の三蔵ともあろう人物が、外国でなんと無闇に気弱な態度を見せたものか』と人が言っていた。しかし、弘融僧都は『何とこころが優しくて情け深い三蔵であることよ』と感嘆したが、その様子はあまりに法師らしくない感じで奥ゆかしく思った。


その3:

 この岩槻の慈恩寺は、天長元年(824)に、慈覚大師(円仁)により開かれた寺院とのこと。
円仁(794~864)といえば、比叡山延暦寺の第三世天台坐主、天台宗山門派の祖として名高い平安時代の僧で、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺等も円仁により開山されたといわれている。

 また彼は、承和5年(838)、最後の遣唐使船で唐に留学、入唐から帰国までの9年半の旅行記
として『入唐求法巡礼行記』を著した。

 法顕の『仏国記(別名 高僧法顕伝)』といい、玄奘の『大唐西域記』といい、偉い人は筆まめでもあるようだ。
 
 


 


 


 

2013年8月13日火曜日

蝉 ・・・三絶


 日本列島は今、チベット高原からの高気圧が在来の太平洋高気圧の上空に重なるという現象で、“これまで経験したことのない猛暑。
 
そんな炎暑のなかを、“この世の春?(夏)”とばかりに、蝉の声が喧しい。

 この蝉、羽化してから一週間程度の短命ということでつとに有名であるが、幼虫として地下生活をする期間は滅法永く、概ね5~6年、永いものでは17年に及ぶとか。
 
 
 
 



 こつこつと努力を積み重ねる地中生活のひたむきさ、
そして羽化してからの短くはかない命が人の心を打つのか、
 
中国の詩人達は孤高で高潔な自分自身の生き様を蝉に託して詠っている。
 
 
 
 
 
其一
 
蝉  by虞世南  
垂緌飲清露 流響出疏桐
居高聲自遠 是非藉秋風

 

       くちばしを垂れ露を飲み 声を響かせ桐に飛ぶ

       高くにいて声はおのずと遠くへ響くが それは秋風のせいではない
 

        ・・・高潔がゆえにその言葉は人のこころを動かすのである

 

        *緌 ··冠のひもとかの長い物
        *藉 ··借と同じ

 

  虞世南 (558~638)は越州(浙江省)の出身
 
隋、唐に生きたいわゆる初唐の人で、太宗(李世民)に高く評価される。
 

 

 

 
其二
 

在獄詠蟬   by駱賓王       
西陸蟬聲唱   南冠客思深
堪玄鬢影   來對自頭吟
露重飛難進   風多響易沈
無人信高潔   誰為表予心
 
  秋になり蝉の鳴く声に 虜囚の私はこの先を憂う

  堪えられないのは余命いくばくもない蝉が この白髪の私に唱和してくれる

  露に濡れ飛ぶこともままならず 鳴く声も強い風で沈みがちだ

  我が身の潔白を信じる者もなく 誰にこの気持ちを表せばいいのだろうか
 

  * 西陸・・秋のこと

  * 南冠・・楚国の冠 ここでは虜囚の自分のこと

 

  駱賓王( ~684?)は義烏(浙江省)の出身 初唐の人

高宗(李治)の代に待御史の職にあったが武后への風刺諫言で弾劾され獄中の身となる。

後に、徐敬業の率いる則天武后(武照)討伐軍の幕僚となり激文をも起草するも、敬業の
 
挙兵が失敗に終わった後、消息不明となる。
 
 
 
 

 

其三 

    by李商隱  
本以高難飽  徒勞恨費聲
五更疏欲斷  一樹碧無情
薄宦梗猶泛  故園蕪已平
煩君最相警  我亦舉家清
 
   高い樹にいて腹は満たず 満たないと叫んでもその声はむなしいだけ

   明け方になり鳴くのをやめてみても 緑いっぱいの樹は何の情もくれない

   下級官吏は木切れのようにあちこち転勤させられ 実家の方は荒れ放題だ

   どうか厳しく取り締まってよ 私も一家をあげて清貧の暮らしなのだから

 
   * 梗 葉や草の茎


 
 
  李商隱(812?~858)は懐州(河南省)の出身 晩唐の人 

朝廷政権は牛・李党争の最中。進士となるもたいした出世もできず工部員外朗で終わった。

彼の詩には、滅びゆくもの、かなえられないものへの哀惜を詠ったものが多い。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2013年8月8日木曜日

中島敦 『山月記』  李徴と袁慘


久々に、『山月記』(中嶋敦)を再読した。

 高校の教科書で初めて触れた中島敦だが、当時、その新鮮な筆致に魅了されたことを思い出す。

 旧かなの文章は、新かなで育った我々には読み辛いものであるが、彼の文体は殆ど抵抗を感じさせない。文章の区切りというか、間の取り方が上手いのだろうか、息つく間もなく読み終えた。
まさに名品たる由縁だろう。

 
 

 今回初めて、文中に一聯の律詩のあること発見。
以前は全く素通りしていたと思われるが、今回はじっくり何回も声に出して詠んでみた。

 
 偶因狂疾成殊類   思いがけず気が狂い獣になってしまい

 災患相仍不可逃   わざわいがとりついて逃れることもできないんだ

 今日爪牙誰敢敵    今や爪・牙が生え誰も俺に敵う者がいないが

 當時聲蹟公相高   嘗ては共に名声・功績が高かったんだよな

 我為異物蓬茅下   俺は虎となって草むらにいるが

 君已乘軺氣勢豪   お前はすでに車に乗り権勢も盛んだな

 此夕溪山對明月   今夜も渓谷で俺は月に向かい

 不成長嘯但成嗥   朗々と詠うこともかなわずただ吼えるだけなんだよ

 


 虎というあさましい身になり果てた李徴が、山中で出会わせた嘗ての同僚の袁慘(えんさん)に、

  嗤ってくれ。 詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
  そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の詩に述べてみようか。

 というくだり。

 これは、同じ中島の歴史小説『李陵』にある李陵蘇武との邂逅ともつながっていて、いわゆる読者を泣かせる場面だ。恐らく、漢代の李陵と蘇武という僚友をヒントにこの『山月記』を書いたのではないかという方が、むしろ適当だろう。



 それと、私がコメントするのもおこがましいが、この七言律詩は良くできている。
江戸時代以降の日本人の漢詩には、ただ難解字、熟語を並べているだけというものが多いが、中嶋敦のこの詩にはいわゆる和臭が感じられない。


ただ、平仄では、尾聯の第七句が「破格」となっていて、押韻でも、首聯の第一句を「踏み落とし」ている。
 
 どうしてだろうか????
律詩でのいわゆる「反法・粘法」の平仄はしっかりとルール通りになっているにも拘わらずだ。押韻にしても、別の字に置き換えることは左程難しいことではないはず。

 やはりここは、この旧詩の道での李徴の未熟さそれとなく示すために、わざと不完全な形態にしたのではないかと思いたい。



 全くの蛇足ながら、盛唐の王維の「竹里館」に、上記の詩と同じ語句がある。
 
 
竹里館
獨坐幽篁裏  彈琴復長嘯
深林人不知  明月來相照
 

         竹むらの奥深くで一人 琴をかなで声長く詠う
  
         奥深くそれを知る人いないが やがて月が照らしてくれるだろう

 

 
 
 
 
 
 



 因みにネットで中島敦の生い立ちを調べてみると、
祖父は亀田鵬斎門下の漢学者で、父親は中学の漢文の教師とのこと。
恐らく家じゅうのあちこちに漢文、漢詩の本が積んであり、漢字には体の隅までなじんでいたことだろう。

更には、父親の転勤に伴い、朝鮮の竜山小学校、京城中学校、中国の大連第二中学校での通学歴もあるとのこと。簡単な中国語は喋れたと思われる。
 
 それが所以か、この山月記のなかで、いわゆる「漢詩」という日本固有のネーミィングではなく、中国で一般的に通用する「旧詩」という言葉を使っていて、あれっと思ったが、やはり相応の中国通・中島らしいワーディングだと再認識した。
 
 
 私も、中国人社会で「漢詩」というと「何?それっ」という顔をされ、結局、「漢賦、唐詩、宋詞とかの、、、」と追加説明を加えてやっと通じるという経験あり。

 
 生い立ち調べで気がついたことがもう一件。
なんと、あの太宰治と同年の1909年(明治42)生まれということだ。しかも1941年に喘息の病で亡くなった(享年33)中嶋もしかり、愛人と心中した太宰も共に早死だったことだ。 可稀!