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2013年7月10日水曜日

項羽と義仲 ・・・そして義経の偶然


大阪での同窓会の帰路、大津を訪れた。

漢詩派生の俳句も趣味としていて、俳句創設者たる芭蕉の最後の場所とやらを訪ねてみたいという“小旅”であった。

 

俳諧紀行文『おくのほそ道』を完成させた芭蕉は、16945月江戸を出発し、西国の弟子達へ「軽み」を伝授する旅に向かうが、4ヵ月後に大坂で病に伏し、御堂筋の花屋仁左衛門方の旅館で息をひきとった。そして、その遺体は芭蕉の遺言通り、弟子たちによって当日の夜のうちに舟で淀川を上り、伏見経由翌日、義仲寺へ運び込まれ、埋葬されたとのこと。

 

朝一で先ず、大阪御堂筋の南御堂に設営された芭蕉の辞世句碑 
旅に病で夢は枯野をかけ廻る』を訪ねた。

南御堂の芭蕉の時世句碑

  
 
 
そのあと、大津の義仲寺を訪ねた。
生前の芭蕉は、源(木曽)義仲の壮絶なる死を悼んでか、何度も訪れている。
 
 
この義仲寺は、勇猛な義仲が従兄源頼朝の派遣する討伐軍(実行部隊は源義経・範頼)との宇治川合戦で窮地に陥り、最後には琵琶湖畔の松原で自刃した場所である(11843月 享年31歳)。

 
墓は義仲の右に芭蕉翁が、左に巴御前が寄り添うように立っていた。

特に、巴御前の墓がいじらしい。彼女は武勇に優れた美女だったらしく、義仲の側室(愛妾?)としても、また武将としても義仲を助けた。

 
木曽義仲墓

巴塚



 
 
 
このとき、ふと史記にある項羽と虞美人との事が思い出された。

 

力拔山兮 氣蓋世   我が力は山を抜き 気は世を蓋っていた

時不利兮 騅不逝   だが今や利なく 愛馬・騅は動かない

騅不逝兮 可奈何   騅が動かないなら どうすりゃいいんだ

虞兮虞兮 奈若何   虞よ虞よ 君を如何にせん
 
  *京劇 ≪覇王別姫≫ http://www.youtube.com/watch?v=-ogZ3SlvuwM

 

 

家へ戻ったあとで調べてみると、項羽があの垓下での四面楚歌のあと、少数の部下とともに包囲を突破し、結局は追い詰められて烏江で自刃したのは31歳(BC202)。

何たる偶然! 項羽も義仲もまさに男ざかりの31歳だったとは!!
 
序でに、、、
 
あの頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃した九郎義経は???

調べてみると、これまた奇遇!!!  
3111896月)だったのだ。

 

 
項羽本 抜粋

項王軍壁垓下,兵少食盡,漢軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚歌,項王乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也!」項王則夜起,飲帳中。有美人名虞,常幸從;駿馬名騅,常騎之。於是項王乃悲歌慨,自為詩曰:「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何!」歌數闋,美人和之。項王泣數行下,左右皆泣,莫能仰視。

 

 

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