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2013年8月8日木曜日

中島敦 『山月記』  李徴と袁慘


久々に、『山月記』(中嶋敦)を再読した。

 高校の教科書で初めて触れた中島敦だが、当時、その新鮮な筆致に魅了されたことを思い出す。

 旧かなの文章は、新かなで育った我々には読み辛いものであるが、彼の文体は殆ど抵抗を感じさせない。文章の区切りというか、間の取り方が上手いのだろうか、息つく間もなく読み終えた。
まさに名品たる由縁だろう。

 
 

 今回初めて、文中に一聯の律詩のあること発見。
以前は全く素通りしていたと思われるが、今回はじっくり何回も声に出して詠んでみた。

 
 偶因狂疾成殊類   思いがけず気が狂い獣になってしまい

 災患相仍不可逃   わざわいがとりついて逃れることもできないんだ

 今日爪牙誰敢敵    今や爪・牙が生え誰も俺に敵う者がいないが

 當時聲蹟公相高   嘗ては共に名声・功績が高かったんだよな

 我為異物蓬茅下   俺は虎となって草むらにいるが

 君已乘軺氣勢豪   お前はすでに車に乗り権勢も盛んだな

 此夕溪山對明月   今夜も渓谷で俺は月に向かい

 不成長嘯但成嗥   朗々と詠うこともかなわずただ吼えるだけなんだよ

 


 虎というあさましい身になり果てた李徴が、山中で出会わせた嘗ての同僚の袁慘(えんさん)に、

  嗤ってくれ。 詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
  そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の詩に述べてみようか。

 というくだり。

 これは、同じ中島の歴史小説『李陵』にある李陵蘇武との邂逅ともつながっていて、いわゆる読者を泣かせる場面だ。恐らく、漢代の李陵と蘇武という僚友をヒントにこの『山月記』を書いたのではないかという方が、むしろ適当だろう。



 それと、私がコメントするのもおこがましいが、この七言律詩は良くできている。
江戸時代以降の日本人の漢詩には、ただ難解字、熟語を並べているだけというものが多いが、中嶋敦のこの詩にはいわゆる和臭が感じられない。


ただ、平仄では、尾聯の第七句が「破格」となっていて、押韻でも、首聯の第一句を「踏み落とし」ている。
 
 どうしてだろうか????
律詩でのいわゆる「反法・粘法」の平仄はしっかりとルール通りになっているにも拘わらずだ。押韻にしても、別の字に置き換えることは左程難しいことではないはず。

 やはりここは、この旧詩の道での李徴の未熟さそれとなく示すために、わざと不完全な形態にしたのではないかと思いたい。



 全くの蛇足ながら、盛唐の王維の「竹里館」に、上記の詩と同じ語句がある。
 
 
竹里館
獨坐幽篁裏  彈琴復長嘯
深林人不知  明月來相照
 

         竹むらの奥深くで一人 琴をかなで声長く詠う
  
         奥深くそれを知る人いないが やがて月が照らしてくれるだろう

 

 
 
 
 
 
 



 因みにネットで中島敦の生い立ちを調べてみると、
祖父は亀田鵬斎門下の漢学者で、父親は中学の漢文の教師とのこと。
恐らく家じゅうのあちこちに漢文、漢詩の本が積んであり、漢字には体の隅までなじんでいたことだろう。

更には、父親の転勤に伴い、朝鮮の竜山小学校、京城中学校、中国の大連第二中学校での通学歴もあるとのこと。簡単な中国語は喋れたと思われる。
 
 それが所以か、この山月記のなかで、いわゆる「漢詩」という日本固有のネーミィングではなく、中国で一般的に通用する「旧詩」という言葉を使っていて、あれっと思ったが、やはり相応の中国通・中島らしいワーディングだと再認識した。
 
 
 私も、中国人社会で「漢詩」というと「何?それっ」という顔をされ、結局、「漢賦、唐詩、宋詞とかの、、、」と追加説明を加えてやっと通じるという経験あり。

 
 生い立ち調べで気がついたことがもう一件。
なんと、あの太宰治と同年の1909年(明治42)生まれということだ。しかも1941年に喘息の病で亡くなった(享年33)中嶋もしかり、愛人と心中した太宰も共に早死だったことだ。 可稀!
 
 
 
 
 
 

 

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