大阪での同窓会の帰路、大津を訪れた。
漢詩派生の俳句も趣味としていて、俳句創設者たる芭蕉の最後の場所とやらを訪ねてみたいという“小旅”であった。
俳諧紀行文『おくのほそ道』を完成させた芭蕉は、1694年5月江戸を出発し、西国の弟子達へ「軽み」を伝授する旅に向かうが、4ヵ月後に大坂で病に伏し、御堂筋の花屋仁左衛門方の旅館で息をひきとった。そして、その遺体は芭蕉の遺言通り、弟子たちによって当日の夜のうちに舟で淀川を上り、伏見経由翌日、義仲寺へ運び込まれ、埋葬されたとのこと。
朝一で先ず、大阪御堂筋の南御堂に設営された芭蕉の辞世句碑
『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』を訪ねた。
南御堂の芭蕉の時世句碑
生前の芭蕉は、源(木曽)義仲の壮絶なる死を悼んでか、何度も訪れている。
この義仲寺は、勇猛な義仲が従兄源頼朝の派遣する討伐軍(実行部隊は源義経・範頼)との宇治川合戦で窮地に陥り、最後には琵琶湖畔の松原で自刃した場所である(1184年3月 享年31歳)。
墓は義仲の右に芭蕉翁が、左に巴御前が寄り添うように立っていた。
特に、巴御前の墓がいじらしい。彼女は武勇に優れた美女だったらしく、義仲の側室(愛妾?)としても、また武将としても義仲を助けた。
木曽義仲墓
巴塚
このとき、ふと史記にある項羽と虞美人との事が思い出された。
力拔山兮 氣蓋世 我が力は山を抜き 気は世を蓋っていた
時不利兮 騅不逝 だが今や利なく 愛馬・騅は動かない
騅不逝兮 可奈何 騅が動かないなら どうすりゃいいんだ
虞兮虞兮 奈若何 虞よ虞よ 君を如何にせん
家へ戻ったあとで調べてみると、項羽があの垓下での四面楚歌のあと、少数の部下とともに包囲を突破し、結局は追い詰められて烏江で自刃したのは31歳(BC202)。
何たる偶然! 項羽も義仲もまさに男ざかりの31歳だったとは!!
序でに、、、
あの頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃した九郎義経は???
調べてみると、これまた奇遇!!!
31歳(1189年6月)だったのだ。
項王軍壁垓下,兵少食盡,漢軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚歌,項王乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也!」項王則夜起,飲帳中。有美人名虞,常幸從;駿馬名騅,常騎之。於是項王乃悲歌慨,自為詩曰:「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何!」歌數闋,美人和之。項王泣數行下,左右皆泣,莫能仰視。