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2013年8月13日火曜日

蝉 ・・・三絶


 日本列島は今、チベット高原からの高気圧が在来の太平洋高気圧の上空に重なるという現象で、“これまで経験したことのない猛暑。
 
そんな炎暑のなかを、“この世の春?(夏)”とばかりに、蝉の声が喧しい。

 この蝉、羽化してから一週間程度の短命ということでつとに有名であるが、幼虫として地下生活をする期間は滅法永く、概ね5~6年、永いものでは17年に及ぶとか。
 
 
 
 



 こつこつと努力を積み重ねる地中生活のひたむきさ、
そして羽化してからの短くはかない命が人の心を打つのか、
 
中国の詩人達は孤高で高潔な自分自身の生き様を蝉に託して詠っている。
 
 
 
 
 
其一
 
蝉  by虞世南  
垂緌飲清露 流響出疏桐
居高聲自遠 是非藉秋風

 

       くちばしを垂れ露を飲み 声を響かせ桐に飛ぶ

       高くにいて声はおのずと遠くへ響くが それは秋風のせいではない
 

        ・・・高潔がゆえにその言葉は人のこころを動かすのである

 

        *緌 ··冠のひもとかの長い物
        *藉 ··借と同じ

 

  虞世南 (558~638)は越州(浙江省)の出身
 
隋、唐に生きたいわゆる初唐の人で、太宗(李世民)に高く評価される。
 

 

 

 
其二
 

在獄詠蟬   by駱賓王       
西陸蟬聲唱   南冠客思深
堪玄鬢影   來對自頭吟
露重飛難進   風多響易沈
無人信高潔   誰為表予心
 
  秋になり蝉の鳴く声に 虜囚の私はこの先を憂う

  堪えられないのは余命いくばくもない蝉が この白髪の私に唱和してくれる

  露に濡れ飛ぶこともままならず 鳴く声も強い風で沈みがちだ

  我が身の潔白を信じる者もなく 誰にこの気持ちを表せばいいのだろうか
 

  * 西陸・・秋のこと

  * 南冠・・楚国の冠 ここでは虜囚の自分のこと

 

  駱賓王( ~684?)は義烏(浙江省)の出身 初唐の人

高宗(李治)の代に待御史の職にあったが武后への風刺諫言で弾劾され獄中の身となる。

後に、徐敬業の率いる則天武后(武照)討伐軍の幕僚となり激文をも起草するも、敬業の
 
挙兵が失敗に終わった後、消息不明となる。
 
 
 
 

 

其三 

    by李商隱  
本以高難飽  徒勞恨費聲
五更疏欲斷  一樹碧無情
薄宦梗猶泛  故園蕪已平
煩君最相警  我亦舉家清
 
   高い樹にいて腹は満たず 満たないと叫んでもその声はむなしいだけ

   明け方になり鳴くのをやめてみても 緑いっぱいの樹は何の情もくれない

   下級官吏は木切れのようにあちこち転勤させられ 実家の方は荒れ放題だ

   どうか厳しく取り締まってよ 私も一家をあげて清貧の暮らしなのだから

 
   * 梗 葉や草の茎


 
 
  李商隱(812?~858)は懐州(河南省)の出身 晩唐の人 

朝廷政権は牛・李党争の最中。進士となるもたいした出世もできず工部員外朗で終わった。

彼の詩には、滅びゆくもの、かなえられないものへの哀惜を詠ったものが多い。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2013年8月8日木曜日

中島敦 『山月記』  李徴と袁慘


久々に、『山月記』(中嶋敦)を再読した。

 高校の教科書で初めて触れた中島敦だが、当時、その新鮮な筆致に魅了されたことを思い出す。

 旧かなの文章は、新かなで育った我々には読み辛いものであるが、彼の文体は殆ど抵抗を感じさせない。文章の区切りというか、間の取り方が上手いのだろうか、息つく間もなく読み終えた。
まさに名品たる由縁だろう。

 
 

 今回初めて、文中に一聯の律詩のあること発見。
以前は全く素通りしていたと思われるが、今回はじっくり何回も声に出して詠んでみた。

 
 偶因狂疾成殊類   思いがけず気が狂い獣になってしまい

 災患相仍不可逃   わざわいがとりついて逃れることもできないんだ

 今日爪牙誰敢敵    今や爪・牙が生え誰も俺に敵う者がいないが

 當時聲蹟公相高   嘗ては共に名声・功績が高かったんだよな

 我為異物蓬茅下   俺は虎となって草むらにいるが

 君已乘軺氣勢豪   お前はすでに車に乗り権勢も盛んだな

 此夕溪山對明月   今夜も渓谷で俺は月に向かい

 不成長嘯但成嗥   朗々と詠うこともかなわずただ吼えるだけなんだよ

 


 虎というあさましい身になり果てた李徴が、山中で出会わせた嘗ての同僚の袁慘(えんさん)に、

  嗤ってくれ。 詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。
  そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の詩に述べてみようか。

 というくだり。

 これは、同じ中島の歴史小説『李陵』にある李陵蘇武との邂逅ともつながっていて、いわゆる読者を泣かせる場面だ。恐らく、漢代の李陵と蘇武という僚友をヒントにこの『山月記』を書いたのではないかという方が、むしろ適当だろう。



 それと、私がコメントするのもおこがましいが、この七言律詩は良くできている。
江戸時代以降の日本人の漢詩には、ただ難解字、熟語を並べているだけというものが多いが、中嶋敦のこの詩にはいわゆる和臭が感じられない。


ただ、平仄では、尾聯の第七句が「破格」となっていて、押韻でも、首聯の第一句を「踏み落とし」ている。
 
 どうしてだろうか????
律詩でのいわゆる「反法・粘法」の平仄はしっかりとルール通りになっているにも拘わらずだ。押韻にしても、別の字に置き換えることは左程難しいことではないはず。

 やはりここは、この旧詩の道での李徴の未熟さそれとなく示すために、わざと不完全な形態にしたのではないかと思いたい。



 全くの蛇足ながら、盛唐の王維の「竹里館」に、上記の詩と同じ語句がある。
 
 
竹里館
獨坐幽篁裏  彈琴復長嘯
深林人不知  明月來相照
 

         竹むらの奥深くで一人 琴をかなで声長く詠う
  
         奥深くそれを知る人いないが やがて月が照らしてくれるだろう

 

 
 
 
 
 
 



 因みにネットで中島敦の生い立ちを調べてみると、
祖父は亀田鵬斎門下の漢学者で、父親は中学の漢文の教師とのこと。
恐らく家じゅうのあちこちに漢文、漢詩の本が積んであり、漢字には体の隅までなじんでいたことだろう。

更には、父親の転勤に伴い、朝鮮の竜山小学校、京城中学校、中国の大連第二中学校での通学歴もあるとのこと。簡単な中国語は喋れたと思われる。
 
 それが所以か、この山月記のなかで、いわゆる「漢詩」という日本固有のネーミィングではなく、中国で一般的に通用する「旧詩」という言葉を使っていて、あれっと思ったが、やはり相応の中国通・中島らしいワーディングだと再認識した。
 
 
 私も、中国人社会で「漢詩」というと「何?それっ」という顔をされ、結局、「漢賦、唐詩、宋詞とかの、、、」と追加説明を加えてやっと通じるという経験あり。

 
 生い立ち調べで気がついたことがもう一件。
なんと、あの太宰治と同年の1909年(明治42)生まれということだ。しかも1941年に喘息の病で亡くなった(享年33)中嶋もしかり、愛人と心中した太宰も共に早死だったことだ。 可稀!