墓にはあまり興味はないが、壮絶たる伍子胥の異様な生き様には感心するところもあり、折角の機会を生かそうと、姑蘇台(霊岩山)を降りたあと、訪ねることにした。
因みに、伍子胥は、司馬選「史記」の列伝に記されている呉国の宰相。
春秋の楚の人であるが、若き頃に父の政敵・費無忌に父と兄を殺害され、呉国の闔閭(光)のもとへ亡命し、闔閭およびその息子・夫差の2代に亘り仕えた呉国興隆の立役者である。
しかし、西施を送ってきた越への処し方をめぐり、越から賄賂を得ている伯嚭(はくひ)の和睦策と子胥の徹底撲滅策とで対立し、また日頃の諫言より、次第に夫差からうとまれるようになり、最後には自害させられるのである。
義を貫かんと諫言すればそれが痣になってはね返ってくるという、現世にも良くある話。
とにかくGoogle Mapだけを頼りに、向かうことに。
タクシーの運ちゃんに、「伍子胥墓まで」といっても、「伍子胥って、なに?」と返ってくる。簡単に伍子胥を説明するが、反って情報混乱を起こすばかり。仕方なく、たまたま地図にあった胥口鎮まで行ってもらい、そこからは歩いて墓へ向かうことにした。
しかし、しかる場所に辿りついているはずなのに、それらしきものがない。
住民のなかでも多少はインテリ顔をした人を選んで、伍子胥墓を訪ねるが、やはり、伍子胥という固有名詞自体が通じない。
地図では、東大街の大橋から東への一本道をせいぜい500mぐらいだから、至ってシンプルな経路であるはずなのに、ない!
東へ来すぎたようなので、また吉祥路を西に戻り、子胥の墓を探して尋ねるが、それらしき入口さえ見つからない!
周辺をぐるぐる何回も行ったり来たりしてみたが、結局らしきものが見つからず、日暮の近づくのを潮に、次回再度探訪することで断念し、蘇州駅に向かった。
0 件のコメント:
コメントを投稿