中国TVドラマはまだまだ発展途上、つまらないものと決め込んでいたが、偶々Tubeでみた中央電視台の「越王勾践」(主演:陳宝国 尤勇・・・お気に入り男優)が面白く、その象徴ともいえる姑蘇台に行ってみたいとおもった。
因みに、姑蘇台は春秋時代の呉王・闔閭(こうりょ)が呉都(姑蘇)の郊外に別荘として造った宮殿で、その息子・夫差が越国から送り込まれた美女・西施と享楽したことで有名である。
蘇州には今まで、仕事の関係で都合10回以上訪れているが、「呉越之戦」なんて、今まで殆ど意識したこともなく、姑蘇台がどの方面にあるのかさえ頭の中になかった。
一応、手元にあった1983年版の蘇州地図とGoogle Mapなどでロケーションを下調べして、久々に上海から蘇州へ脚を伸ばすことにした。中国内の一人旅はなにかとリスクが高く、内心、不安を感じながらであったが。。。。
蒸し暑い6月の朝9時ごろ、虹橋駅から地下鉄で「虹橋火車站」(汽車駅)に向かった。この新駅は、2010年に新しく開発された「上海虹橋2号航站(第二ターミナル)」の西に併設され、市内から地下鉄一本で行けるようになっていたのだ。
ところが、あわてて出かけた為か、虹橋火車站に着いて初めてパスポートを携帯し忘れたことに気がつく。そのため蘇州へのいわゆる『高鉄』(高速鉄道)の切符が買えず、已むなくバスで蘇州へ向かうことにした。
乗ったバスは快適で、ノンストップで蘇州へ。
ところが、終点はなんと、田園地帯を新開発して間もない蘇州東郊の海関大楼前。道路に人通りはないし、車もまばらで、ましてタクシーなんて走っていない。バスから降りると早速、むくつけき『黒車』(白タク)のアンちゃんが、乗らないかとしつこく誘ってくる。同乗した数人の欧米人には全くアプローチせず、日本人と見定めた私に喰らいついてくる。相も変らずの中国国情なり。
目的地の姑蘇台は降りた東郊とは反対の西南郊外にあるため、当初はタクシーで移動するつもりであったが、黒車に乗っかる気にならない。炎天下を西方向に向かって数百メートル歩くと、丁度バス停があり、取りあえず、西方向へ進み、市街地に入ってから、タクシーを拾い、ようやく姑蘇台のふもとまで到着した。
この姑蘇台という小高い丘、 事前におおよその方向、位置を下調べしてから来たので首尾よく到達できたが、この地名は観光パンフレットに記載なく、霊岩山となっている。現地の中国人に道を尋ねてみても、霊岩山は知っていたが姑蘇台知る者は誰もいない。
Googleで姑蘇台を検索すると、最近できたらしい市街地から近い石湖景区(呉越路)にある団体観光客目当ての娯楽園が表示される。
1995年頃に私は工業団地開発F/Sの一貫として、このエリアに2~3回足を踏み入れている。蘇州市政府の役人は、この西郊エリアを『高科技』(ハイテク)団地にしたいと言っていたが、当時は果てしなく青々と広がる田園地帯であった。しかし、今や政府の一大事業である不動産開発により、工業団地地区としてすっかり変貌していた。
麓から歩くこと、ほんの20~30分で頂上にたどり着いた。山の高さは、せいぜい100メートルぐらいか。それでも頂上から見下ろす下界の眺めは爽快である。途上に、「日中友好記念碑が」が建てられていたが、表面の「中日友好」の「日」の文字は、削り取られている。中央政府の国内問題のすり替え策に気付かない若者の悪戯だろう。
頂上には、霊岩山寺があり、立派な本殿とすっきりとした卒塔婆がたっている。
一通り寺の境内を見廻ったが、姑蘇台宮殿跡地らしきものがまったく見当たらない。何人かに姑蘇台は? と聞いても、変な顔をされるだけ。姑蘇さえ聞いたことのない言葉のような反応だ。 どこかにあるはずと、再度境内をめぐってみると、境内の横手に小さな山道がある。ひょっとしてと思い登っていくと一段高い処が平地となっていて、小さな看板が立っていた。これがまさに姑蘇台宮殿跡地のようだ。先ほどの霊岩山寺までけっこうな数の旅遊客がいたのに、ここまで登ってくる人はほんの数人。登ってきても、夫差・西施のことを話題にしているような人はいない。ただぶらぶらっと見歩いて、そそくさと踵を返していく人ばかりだ。
貧相であまりにも簡単な案内板だが、それでもじっくり見てみると「梳粧台」とある。恐らく西施が暇をもてあまし、髪をすいていたであろう。
この庭園の職員に梳粧台の場所を尋ねるが、またもや「知らん!」の一言。
あ~ぁ! 今の中国の価値観は、歴史には遠く、銭と日々の享楽だけなんだなと、再認識させられる。
いっとき園内で、西施のやるせなさ(?!)に思いをはせ、また、以下の李白の詩をカバンから取り出し、中国の歴史変遷と盛衰無常の感慨に浸る。
越中覧古 by 李白(701~762)
越王勾践破呉帰
義士還家尽錦衣
宮女如花満春殿
只今惟有鷓鴣飛
越王勾践は呉滅ぼし帰ってきた
家来たちも家にもどりみな錦を飾っている
宮女たちは花のように春の宮殿で舞い踊っている
だが今やただ鷓鴣(しゃこ)が飛んでいるだけ
*鷓鴣はキジ科の鳥で悲しげに鳴く
もうひとつ姑蘇台を詠んだ詩がある。
姑蘇台 by 絶海中津
姑蘇台上北風吹 過客登臨日暮時
糜鹿群遊華麗尽 江山千里版図移
忠臣甘受属鏤剣 諸将愁看姑蔑旗
回首長洲古苑外 断烟疎樹共凄其
絶海中津は室町時代前期の禅僧で、土佐の人らしい。
彼は1368年、中国に渡海し杭州の中天竺寺に入り、約10年間滞在したとのこと。
1368年といえば、貧農出身の朱元璋(洪武帝)が南京を拠点に長江流域の統一に成功し、明を建国した年である。ということは、この律詩の第4句にある「・・・・版図移」とは、唐国土は蒙古族の元にすっかり席巻されてしまったと嘆いているのだろう。
また5句目の忠臣とは、伍子胥のことである。
彼は呉王に仕えたが日ごろの諫言で王・夫差からうとまれ、最後は夫差か渡された名剣・属鏤剣
で自害するのである(次回に、掲載予定)
それにしてもというか、やはり平安、室町時代の高僧の漢語レヴェルは相当高かったようで、和臭のしない出来栄えだ。
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そして帰りはすっかり変貌した蘇州西郊の新開発を眼下にみながら、
裏道をゆっくり歩いて帰った。
すると、山肌に何か所か墓地があり、その墓石に吃驚!
なんと顔入り墓石だ!
あとで中国の友人に訊けば、
「目印になって見つけやすいし、お参りする時にも顔が浮かびやすくて、良いのよ」
ってことだ。
ふう~ん?!
そういうもんかいのう?!