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2013年6月25日火曜日

伍子胥 墓を探しあぐねて・・・・


墓にはあまり興味はないが、壮絶たる伍子胥の異様な生き様には感心するところもあり、折角の機会を生かそうと、姑蘇台(霊岩山)を降りたあと、訪ねることにした。
 
因みに、伍子胥は、司馬選「史記」の列伝に記されている呉国の宰相。
春秋の楚の人であるが、若き頃に父の政敵・費無忌に父と兄を殺害され、呉国の闔閭(光)のもとへ亡命し、闔閭およびその息子・夫差の2代に亘り仕えた呉国興隆の立役者である。
しかし、西施を送ってきた越への処し方をめぐり、越から賄賂を得ている伯嚭(はくひ)の和睦策と子胥の徹底撲滅策とで対立し、また日頃の諫言より、次第に夫差からうとまれるようになり、最後には自害させられるのである。
義を貫かんと諫言すればそれが痣になってはね返ってくるという、現世にも良くある話。
 
 
とにかくGoogle Mapだけを頼りに、向かうことに。
タクシーの運ちゃんに、「伍子胥墓まで」といっても、「伍子胥って、なに?」と返ってくる。簡単に伍子胥を説明するが、反って情報混乱を起こすばかり。仕方なく、たまたま地図にあった胥口鎮まで行ってもらい、そこからは歩いて墓へ向かうことにした。 

 




 
 
しかし、しかる場所に辿りついているはずなのに、それらしきものがない。

住民のなかでも多少はインテリ顔をした人を選んで、伍子胥墓を訪ねるが、やはり、伍子胥という固有名詞自体が通じない。
 
地図では、東大街の大橋から東への一本道をせいぜい500mぐらいだから、至ってシンプルな経路であるはずなのに、ない!
 
 
 
 
 付近の住宅街に入って聞いてみるが、やはり駄目!
それにしても、この辺の農家は、近郊野菜業で儲けているのか、工業団地か住宅かの開発で農地を売ったお金でなのか、結構な家を建てて住んでいる。
 

 
 
きょろきょろして歩いているうちに、東麗路ー吉祥路まで来てしまっている。 
東へ来すぎたようなので、また吉祥路を西に戻り、子胥の墓を探して尋ねるが、それらしき入口さえ見つからない!



 


周辺をぐるぐる何回も行ったり来たりしてみたが、結局らしきものが見つからず、日暮の近づくのを潮に、次回再度探訪することで断念し、蘇州駅に向かった。
 
 

 

 

2013年6月21日金曜日

姑蘇台 探訪


中国TVドラマはまだまだ発展途上、つまらないものと決め込んでいたが、偶々Tubeでみた中央電視台の「越王勾践」(主演:陳宝国 尤勇・・・お気に入り男優)が面白く、その象徴ともいえる姑蘇台に行ってみたいとおもった。

因みに、姑蘇台は春秋時代の呉王・闔閭(こうりょ)が呉都(姑蘇)の郊外に別荘として造った宮殿で、その息子・夫差が越国から送り込まれた美女・西施と享楽したことで有名である。





 

蘇州には今まで、仕事の関係で都合10回以上訪れているが、「呉越之戦」なんて、今まで殆ど意識したこともなく、姑蘇台がどの方面にあるのかさえ頭の中になかった。


一応、手元にあった1983年版の蘇州地図とGoogle Mapなどでロケーションを下調べして、久々に上海から蘇州へ脚を伸ばすことにした。中国内の一人旅はなにかとリスクが高く、内心、不安を感じながらであったが。。。。
 
 

蒸し暑い6月の朝9時ごろ、虹橋駅から地下鉄で「虹橋火車站」(汽車駅)に向かった。この新駅は、2010年に新しく開発された「上海虹橋2号航站(第二ターミナル)」の西に併設され、市内から地下鉄一本で行けるようになっていたのだ。

ところが、あわてて出かけた為か、虹橋火車站に着いて初めてパスポートを携帯し忘れたことに気がつく。そのため蘇州へのいわゆる『高鉄』(高速鉄道)の切符が買えず、已むなくバスで蘇州へ向かうことにした。

 
 

 
乗ったバスは快適で、ノンストップで蘇州へ。

ところが、終点はなんと、田園地帯を新開発して間もない蘇州東郊の海関大楼前。道路に人通りはないし、車もまばらで、ましてタクシーなんて走っていない。バスから降りると早速、むくつけき『黒車』(白タク)のアンちゃんが、乗らないかとしつこく誘ってくる。同乗した数人の欧米人には全くアプローチせず、日本人と見定めた私に喰らいついてくる。相も変らずの中国国情なり。

 

目的地の姑蘇台は降りた東郊とは反対の西南郊外にあるため、当初はタクシーで移動するつもりであったが、黒車に乗っかる気にならない。炎天下を西方向に向かって数百メートル歩くと、丁度バス停があり、取りあえず、西方向へ進み、市街地に入ってから、タクシーを拾い、ようやく姑蘇台のふもとまで到着した。
 
 
 

 

この姑蘇台という小高い丘、 事前におおよその方向、位置を下調べしてから来たので首尾よく到達できたが、この地名は観光パンフレットに記載なく、霊岩山となっている。現地の中国人に道を尋ねてみても、霊岩山は知っていたが姑蘇台知る者は誰もいない。
Googleで姑蘇台を検索すると、最近できたらしい市街地から近い石湖景区(呉越路)にある団体観光客目当ての娯楽園が表示される。

1995年頃に私は工業団地開発F/Sの一貫として、このエリアに2~3回足を踏み入れている。蘇州市政府の役人は、この西郊エリアを『高科技』(ハイテク)団地にしたいと言っていたが、当時は果てしなく青々と広がる田園地帯であった。しかし、今や政府の一大事業である不動産開発により、工業団地地区としてすっかり変貌していた。

 






麓から歩くこと、ほんの20~30分で頂上にたどり着いた。山の高さは、せいぜい100メートルぐらいか。それでも頂上から見下ろす下界の眺めは爽快である。途上に、「日中友好記念碑が」が建てられていたが、表面の「中日友好」の「日」の文字は、削り取られている。中央政府の国内問題のすり替え策に気付かない若者の悪戯だろう。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
頂上には、霊岩山寺があり、立派な本殿とすっきりとした卒塔婆がたっている。
一通り寺の境内を見廻ったが、姑蘇台宮殿跡地らしきものがまったく見当たらない。何人かに姑蘇台は? と聞いても、変な顔をされるだけ。姑蘇さえ聞いたことのない言葉のような反応だ。 どこかにあるはずと、再度境内をめぐってみると、境内の横手に小さな山道がある。ひょっとしてと思い登っていくと一段高い処が平地となっていて、小さな看板が立っていた。これがまさに姑蘇台宮殿跡地のようだ。先ほどの霊岩山寺までけっこうな数の旅遊客がいたのに、ここまで登ってくる人はほんの数人。登ってきても、夫差・西施のことを話題にしているような人はいない。ただぶらぶらっと見歩いて、そそくさと踵を返していく人ばかりだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貧相であまりにも簡単な案内板だが、それでもじっくり見てみると「梳粧台」とある。恐らく西施が暇をもてあまし、髪をすいていたであろう。
この庭園の職員に梳粧台の場所を尋ねるが、またもや「知らん!」の一言。 
あ~ぁ! 今の中国の価値観は、歴史には遠く、銭と日々の享楽だけなんだなと、再認識させられる。
 
 
 

いっとき園内で、西施のやるせなさ(?!)に思いをはせ、また、以下の李白の詩をカバンから取り出し、中国の歴史変遷と盛衰無常の感慨に浸る。

 
      越中覧古  by 李白(701762
 
 越王勾践破呉帰
 義士還家尽錦衣
 宮女如花満春殿
 只今惟有鷓鴣飛
      越王勾践は呉滅ぼし帰ってきた
      家来たちも家にもどりみな錦を飾っている
      宮女たちは花のように春の宮殿で舞い踊っている
      だが今やただ鷓鴣(しゃこ)が飛んでいるだけ
 
               *鷓鴣はキジ科の鳥で悲しげに鳴く



もうひとつ姑蘇台を詠んだ詩がある。

姑蘇台  by 絶海中津

姑蘇台上北風吹  過客登臨日暮時
糜鹿群遊華麗尽  江山千里版図移
忠臣甘受属鏤剣  諸将愁看姑蔑旗
回首長洲古苑外  断烟疎樹共凄其

 

絶海中津は室町時代前期の禅僧で、土佐の人らしい。

彼は1368年、中国に渡海し杭州の中天竺寺に入り、約10年間滞在したとのこと。

1368年といえば、貧農出身の朱元璋(洪武帝)が南京を拠点に長江流域の統一に成功し、明を建国した年である。ということは、この律詩の第4句にある「・・・・版図移」とは、唐国土は蒙古族の元にすっかり席巻されてしまったと嘆いているのだろう。

また5句目の忠臣とは、伍子胥のことである。
彼は呉王に仕えたが日ごろの諫言で王・夫差からうとまれ、最後は夫差か渡された名剣・属鏤剣
で自害するのである(次回に、掲載予定)

それにしてもというか、やはり平安、室町時代の高僧の漢語レヴェルは相当高かったようで、和臭のしない出来栄えだ。

 
                 ・  ・   ・  ・  ・
 
 
 
 
 
そして帰りはすっかり変貌した蘇州西郊の新開発を眼下にみながら、
裏道をゆっくり歩いて帰った。
 
 
 
 
 
 
 
すると、山肌に何か所か墓地があり、その墓石に吃驚! 
なんと顔入り墓石だ!
 
 
 
 
 
 
 
あとで中国の友人に訊けば、
「目印になって見つけやすいし、お参りする時にも顔が浮かびやすくて、良いのよ」
ってことだ。
ふう~ん?! 
そういうもんかいのう?!
 
 
 
 
 
 
 
 
                          姑蘇台遠景




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2013年6月11日火曜日

日々雑感 ・・・三題 「照鏡見白髪」 「登楽游原」 「石灰吟」


3年前にFull Time の身を洗い、コンサル事務所を開設し、
たいした Dutyも Responsibilityもない業務を細々と続けおる昨今。


その1

 

≪照鏡見白髪≫   

 

 

   宿昔青雲志    蹉タ白髪年

   誰知明鏡裏    形影自相憐

 

       by 張九齢(678-740)   ・・・盛唐の人

 

  若い頃は青雲の志を抱いとったけんど

 

  挫折を繰り返して白髪の歳になってしもうた

 

   

   鏡に写る自分の姿が可哀そうやなんて思いもせなんだわ

 

 

* 張九齢は唐代の宰相をも勤める。 二十代で科挙に合格、玄宗皇帝の下、中書令にまでなるが、李林甫や楊国忠(楊貴妃一族)らと衝突し荊州(湖北省)に左遷される。

官を退いた後は文学・歴史に親しんで過ごした。



 

その2

≪登楽游原≫  


  向晩意不適   駆車登古原

  夕陽無限好 只是近黄昏

 

       by 李商隠(812-858)  ・・・晩唐の人 

 

   

      歳とると思い通りに行かんもんや

 

      気晴らしに車で古原に登ってみたら

 

      夕陽がえらい美しいやんけ

 

      たそがれに近いっちゅうのに

 

* 古原: 長安の南にある小高い丘の名

 

     

 
【賣炭翁の解釈】
志なかばで老いていく吾身。

されど、西山に沈んでいく素晴らしい夕陽のように、今一度頑張ってみよう。

・・・・このBlogも頑張って続けよう


その3

≪石灰吟≫  

 

  千錘萬鑿出深山

  烈火焚焼若等閑

  粉骨砕身渾不怕

  要留清白在人間

 


        by 于謙(1398-1457)  ・・・明の人


 

 

   めちゃ痛めつけられて田舎から追い出されてしもうた

 

   おまけに火であぶられたけど平然としてよう

 

   身が粉々になっても恐がらんと

 

   世渡りは清廉潔白で行くとしよう

 

 

【賣炭翁の解釈】

乱世の世、如何なる社会の荒波、また心ならぬ中傷に見舞われようと、毅然として高潔を保って生きていこうという、高い気構えを詠っている。