先週の日曜日に、以前から気になっていた岩槻(さいたま市岩槻区)の慈恩寺を訪れた。
関心事の一つ目は、あの『西遊記』三蔵法師こと、玄奘の遺骨の一部が安置されている寺という事である。
第二次世界大戦のさなかの1942年、南京の中華門外に駐屯していた日本軍が稲荷神社を建立すべく丘を整地していたおり、石棺のなかの玄奘三蔵法師の頂骨を発見した由。
そしてその遺骨は蒋介石南京政府に還付されたが、1944年、その一部が日本へ分骨されたということである。
因みに、この頂骨は更に、1955年に台湾(蒋介石総統下の中華民国)へ、1981年に奈良の薬師寺へと分骨されている。
関心事の二つ目は、岩槻の慈恩寺はどういう風景、風格をしたお寺かなというもの。
いくら玄奘の頂骨があるとはいっても、当然、広大な大陸風土の西安慈恩寺とは趣を異にすることへの「思想準備」はできていたので、この点については大した驚きはなかった。
しかし、週末にも拘わらず、参拝者は私のほかにたった一人。
過度な期待は毛頭しないものの、寺全体はなんとなく寂れた感が否めない。
過度な期待は毛頭しないものの、寺全体はなんとなく寂れた感が否めない。
本写真は慈恩寺のHP(http://www.jionji.com/)より
加えて、意外だったのは、遺骨安置のいわゆる仏舎利塔が慈恩寺の境内にはなく、そこから1Kmほど離れた、周囲が田んぼの高台に建立されていたことである。
興味半分に、西安慈恩寺との両方を並べてみると・・・
そのスケール、周辺の自然環境等、受け取るイメージは全く違うが、仏舎利塔(大雁塔)と玄奘像との対比アングルは、結構上手くなく似せていることに感心する。
西安慈恩寺大雁塔と玄奘像(2010年4月撮影)
そして、玄奘さんの顔かたちはどうか???
西安・玄奘像
* 西安の玄奘像写真のZoomUp版が手元にないので、微細に検証はできないが、
表情が大きく違うのが分かると思う。
岩槻の玄奘さんはやはり日本人的な顔つきをしている。
まるで、空海か誰かと見紛うぐらいだ。
玄奘塔を参観したあとの帰り道を歩いていると、その道端にお地蔵さんに巡り会う。
なんとなく、玄奘像よりこちらの方がずっと、土地の人に愛され、その風土、文化にしっかりと根ざしているようなのが、対照的であった。
やはり日本人には、唐人の玄奘さんよりお地蔵さんか!
《余録》
その1:
冒頭で述べたところの、1981年に岩槻慈恩寺から分骨された奈良の薬師寺へは、2010年11月に訪れているが、建物の風格といい、観光客の顔ぶれといい、なんとなくしっくりこなかった。それは、日本人にとって三蔵法師ならいざ知らず、玄奘では馴染みがない為だろうか??!
薬師寺 玄奘塔(2010年11月撮影)
その2:
この玄奘さん、日本では中国明代に書かれた長編小説『西遊記』の庶民浸透が深すぎるせいか、一種のアドベンチャー物語として有名であり、またスーパーマン的能力を発揮する「孫悟空」の主役的存在感があまりにも強すぎるために、この三蔵法師こと、玄奘三蔵が脇役に追いやられている為か、知名度が今一つの感。
しかし、歴史上では彼こそ偉大なる開拓者であり、貢献者であるのだ。
玄奘(姓は陳)は隋代に生れ。
唐代の貞観3年(629年)、なんと27歳の若さで、天竺(現在のインド)での仏教求法のために国禁を犯して出国。西安から河西回廊を経て高昌国に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺に渡った。その行程は、荒漠たる熱砂のタクラマカン砂漠あり、万年雪の覆うパミール高原あり、ここを徒歩で横断することは車で以てしても容易なことではない。そしてナーランダ寺院で5年にわたり仏法を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て、貞観19年(645年)、膨大な経典を長安に持ち帰ったのである。
この遠隔地への、かつ長期の留学旅程は、これまたなんと、あしかけ17年という長期間である。そして、帰国後の人生はひたすら、経典の整理、翻訳に冒頭したというのだから、恐れ入る。現代人の我々からして、想像を絶するような生き様だ。
まさに脱帽もの!
こんな偉い玄奘さん、しかし、彼以上に凄い先駆者がいたこと、日本ではあまり知られていない。その人の名は法顕三蔵さん。姓は龔(きよう)、玄奘に先立つこと約230年前の東晋時代に、天竺への求法行脚に出かけているのだ。
* この三蔵というのは固有名詞ではない。
「玄奘塔にある玄奘とは三蔵法師のことである」なぁ~てもっとらしく言って
いる人もいるが、三蔵とは、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶に
与えられる尊称、すなわち職名である。
法顕三蔵も行きは中央アジア経由という玄奘とほぼ同じルートを辿っているが、彼が凄いのは、天竺(インド)を旅した後、舟で師子国(スリランカ)渡り、さらにその後、インド洋を渡り、海路で中国へ漂着帰国したことである。インド、ジャワ等の東南アジアと中国との海洋交通、貿易はまだ発展していない5世紀の時代だ。
日本は飛鳥の前代の古墳時代の頃である。
更に彼が凄いのは、399年に60歳余の老年の身で天竺へ徒歩で向かったことだ。
全行程あしかけ13年をかけ、陸路の熱砂、パミールの凍土、海路の暴風雨をも乗り越え、412年、目的地の広州ではなく、青州長広郡(山東省)に漂着・帰国した。
その時はなんと、御歳70歳余のご老体。
それにしてもなんと、強靭な肉体と精神の持ち主だろうか!まさに超人!
私も、歳をとったな~とか、加齢でどうたらとか、言えたものではない。
偶々、『徒然草』第84段に法顕の記述があること、ネットで再認識見した。
これを見ると、超人もやはり人の子かと、安心したりもする。
第84段:法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、『さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を人の国にて見え給ひけれ』と人の言ひしに、弘融僧都、『優に情ありける三蔵かな』と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。
【現代語訳】
法顕三蔵はインドに渡ったが、故郷の扇を見ては悲しみを感じ、病に臥せれば故郷の中国の食事を求めたということだ。その話を聞いて、『高僧の三蔵ともあろう人物が、外国でなんと無闇に気弱な態度を見せたものか』と人が言っていた。しかし、弘融僧都は『何とこころが優しくて情け深い三蔵であることよ』と感嘆したが、その様子はあまりに法師らしくない感じで奥ゆかしく思った。
その3:
この岩槻の慈恩寺は、天長元年(824)に、慈覚大師(円仁)により開かれた寺院とのこと。
円仁(794~864)といえば、比叡山延暦寺の第三世天台坐主、天台宗山門派の祖として名高い平安時代の僧で、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺等も円仁により開山されたといわれている。
また彼は、承和5年(838)、最後の遣唐使船で唐に留学、入唐から帰国までの9年半の旅行記
として『入唐求法巡礼行記』を著した。
法顕の『仏国記(別名 高僧法顕伝)』といい、玄奘の『大唐西域記』といい、偉い人は筆まめでもあるようだ。
その3:
この岩槻の慈恩寺は、天長元年(824)に、慈覚大師(円仁)により開かれた寺院とのこと。
円仁(794~864)といえば、比叡山延暦寺の第三世天台坐主、天台宗山門派の祖として名高い平安時代の僧で、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺等も円仁により開山されたといわれている。
また彼は、承和5年(838)、最後の遣唐使船で唐に留学、入唐から帰国までの9年半の旅行記
として『入唐求法巡礼行記』を著した。
法顕の『仏国記(別名 高僧法顕伝)』といい、玄奘の『大唐西域記』といい、偉い人は筆まめでもあるようだ。
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