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2014年2月22日土曜日

ぶらり北京 ・・・保利芸術博物館を参観して


 久々の北京に4日間逗留。
 
 メディア報道の通り、滞在中の全日、街はどんより立ち込める霧の中であった。

 「これはスモッグじゃないの」といぶかる私に、北京の友人は、「市内の工場は総て移転したので、これは霧よ」という。確かに霧には間違いないが、車の排気ガスが半分以上混じっていて、あの霧特有のさわやかさはない。それにこの2年間の一番大きな変化は道路の大渋滞であった。北京オリンピックの後、一気に所得倍増となったのか、自家用車が道路にあふれ、どこもかしこも、また昼夜を問わずの渋滞である。お陰で、タクシーが殆どといっていくらい捕まらない。いっときのバンコックと同じで、まさに麻痺状態になっている。

 そんななか、30分待てども捕まらないタクシーを諦め、バス&歩きで、東四十条にある保利芸術博物館に行ってきた。この博物館は今世紀になってから開館した新しい博物館で、清代の離宮・円明園にあった干支のブロンズ像が陳列されているとのことで、訪ねてみた。
 因みにあの円明園は第二次アヘン戦争のおり焼け落ち、そこにあった十二支の銅雕も国外に持ち去られてしまったが、そのうちの一部が香港でオークションとなった時、政府の肝いりで「保利集団」をして買い戻させたのである。

  またこの保利集団というのは、ドエライ企業グループ。そのルーツ・「原単位」はというと、それこそ中枢中の中枢、解放軍総参謀部なのである。そしてその威厳を象徴するかのように、贅沢なオフィスビル「新保利大廈」を構えていて、そこに博物館をも常設しているのである。

 


 吹き抜けのカーテンオール総ガラス張りロビー



 
芸術博物館玄関





  入館してざっと見渡した第一印象は、結構な逸品が陳列されていること。恐らく財力と権力を物にいわせて収集したのだろう。
それと、入場者が私意外にたったの数名のみと至って少ないことだった。 みんな銭儲け(『向銭看』)に没頭して忙しいのだろう。お陰で、あの中国人特有の雑踏に悩まされず、美の極致にしばし浸ることができた。
 
円明園の十二支銅雕
 

 わたしにとっては円明園の銅雕もさることながら、魏晋時代の仏像の笑顔が印象的だった。魏晋以降の唐代の影響を大きく受けている日本の菩薩像とは笑顔が違うのである。仏教文化に関して全く門外漢の私ではあるが、ここで観る仏像は、何のわだかまりもなく自然で開放的な笑顔をしていて、観る者にとって何も考えなくてすむ(?!)のが有難い。
 
 


菩薩像
 

2012116日 記)
 


2014年2月20日木曜日

北京邂逅 ・・・風䔥䔥として易水寒し


1969年以来45年ぶりの大雪、しかも2週連続。
寒さがじわりと骨身に沁みる。
 
       ・  ・  ・  ・  ・
 
  2年ぶりの北京訪問。
 今回は、「易」と「涿」を目当てにやってきた。

 易水は戦国時代のあの荊軻が「風䔥䔥として易水寒し・・・」と詠嘆した地であり、涿は三国時代の劉備の出生地であり、関羽、張飛と「桃園のちぎり(中文:桃園結義)」を交わした地である。

 1980~90 年代の間、私は北京に2回駐在し、8年弱暮らしていたが、その頃は日々のビジネスに没頭し過ぎていたせいか、中国の歴史にしろ、詩歌にしろ、大した関心を持っていなかった。 またその頃の河北省といえば、80年代は「通行証」がないと外国人は入れない土地であり、易(現在は河北省保定市易県)にしろ、涿(現在は同省涿州市)にしろ、河北省のどこか程度にしか思っていなかったのである。ところが、最近になって、じっくり地図を見てみると、易は意外にも北京からそう遠くなく、涿は北京市の隣合わせということを再認識。ならば・・・ということで、今回、上海からの帰国を北京に切り替えて周ってきたのである。

 その荊軻といえば、『史記』の刺客列伝の最後をかざる壮士。彼は、燕国の太子・丹(秦国の人質となっていたが、逃げ帰り、復讐を図る)の命を受け、秦王・政(後の始皇帝)の暗殺を企てるが失敗し、その場で殺された悲運の士である。荊軻は易の街まで太子・丹に見送られ、これから秦に向かうに当たり、易水のほとりに佇み、ほとばしる決意を胸に高々と吟唱するのである。

 北京から、地図を片手にタクシーを飛ばすこと約2時間、距離にして110Km 。今は、北京市南隣の保定市の行政区域にある。先ずは、地元地図を買うべく、街の中心地(=人民政府)をめざし、運よくそのすぐ高くに本屋を発見、首尾よく保定市の詳細地図を入手した。流石地元地図、易水までの道路がはっきりとあり、労少なくして、河の袂まで辿り着いた。易の街から川のほとりまで車で10分、約8Km。

 
 
 



 先ずは、地元地図を買うべく、街の中心地(=人民政府)をめざし、運よくそのすぐ高くに本屋を発見、首尾よく保定市の詳細地図を入手した。流石地元地図、易水までの道路がはっきりとあり、労少なくして、河の袂まで辿り着いた。易の街から川のほとりまで車で10分、約8Km。
 

 
 

 元々期待していなかったが、懸念した通り、川床は荒れ放題。まさに近年の不動産ブームの恩恵(?)を受け、コンクリート骨材の格好の供給源とされ、辺り一面が掘り返されている。まあそれでも、目的地に到達し気分高揚、荊軻の台詞を高吟する。

風䔥䔥兮易水寒 壮士一去兮不復還

 (䔥䔥として易水寒し 壮士ひとたび往けば帰らず)
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 その後、易の街での昼食を挟んで、涿へ向かうが、さて、何処を目指すか?
 手元に何のガイドブックもなく、あるのは易県で買った涿州市の地図だけである。劉備の故郷だから、記念館か墓か、何かあるだろうと地図を調べてみるも、何の標記もない。そこで運転手に頼み地元人に尋ねるが、「そんなものは知らん」だと。尋ねること3人目でやっと、「三義宮」(3人の桃園のちぎりを祭ったところ)というのがあると教えられ、向かう。




  それにしても、今どきの中国人の歴史無知・無感心にはほとほと呆れかえる。地元人でありながら「劉備」の名前さえ知らないのである。近代中国が如何に歴史教育をおろそかにし、革命思想教育に血道をあげ、また今世紀に入ってからは銭向けだけに目をくらましてきたかの、象徴的な事例である。このことは今回の涿州に限らない。昨年、蘇州に行ったおり、伍子胥の墓を地元の農夫らしき人に訪ねた時もそうだった。「夫差」の名さえ知らない連中が多いことにがっくりした。ましてや、「伍子胥」の名前なんて皆目、チンプンカンプンである。 ・・・・偉そうにいえないかな? 今どきの日本のギャルもこれと同類だから。
 
 「三義宮」は地元人が知らないくらいだから規模も対して大きくなく、参観者は我々意外にもう一組いるだけの閑散としたものだった。園内の係員の説明では、入り口の門は明代の建造物であるが、他の建物はすべて最近立てられたとのこと。観光客誘致を狙ってのことであろうが、それならそれでもう少し観光PRをすればいいのにと思うが、造ったら造りっぱなしというのが中国らしい。ぐるっと見て回ったが、正直、たいして観るものなし。地元人が知らないのも無理ないか?!・・・         



<< 追記 >>

俳人・与謝蕪村の句に易水を詠んだものがある。

     易水にねぶか流るる寒かな
 


まさに、今年の2月は寒い日が続く。