敦賀の気比の松原を散策していると、
ふと勝海舟の漢詩碑に目が留る。
あれっ?! どうして、こんなところに勝海舟が???
碑文の下に、敦賀市教育委員会による説明看板あり。
1991年(明治24)の秋、この松原を訪れた海舟は、明治天皇が1878年(明治11)10月の北陸巡幸のおりこの松原を訪れていたことを知り、詠んだ詩句であるとのこと。
辛卯仲秋 勝海舟安房
曾經駐輂處 かって輿を留められたところ
黎首憶甘棠 庶民はその善政を嬉しく思う
松籟如奏曲 松風は奏でる音楽のようで
海濤和洋洋 波も和み洋々としている
*甘棠:周代の召公がかって甘棠(ヤマナシ)の木の下で休んだいたことより、人民がその甘棠を大切にしたという故事を踏まえた典拠。
善政を行う人に対する尊敬と親愛の情が深いことの意。
海舟こと勝安房の漢詩を特段研究している訳ではないが、難語、典拠を多様する嫌いあり。そして頭のなかだけで詠む詩歌の特徴である、いわゆる衒いが匂う。
本人もこの種の文芸は得意でなく、それほど好きではないと言っていたらしいが、確かに未熟の感あり。
その点、南洲氏こと西郷隆盛の心からほとばしる詩歌にはとても叶わないであろう。
2014年11月25日火曜日
2014年11月23日日曜日
敦賀の旅・・ 時代を考える
先週末の16日、京都での同級会の帰りに、敦賀を訪ねることにした。
敦賀といえば遠い北陸の街という印象だったが、京都駅からは特急サンダーバード号で湖西を走り、あっという間の一時間弱で着いた。
駅を出て、シンボルロード(何がシンボル???)とやらを歩き、気比神宮へと向かう。日曜日の昼前というのに、殆どの商店のシャッターは降りたまま、舗道を歩く人も殆どいない。この紅葉の季に外国人でごった返していた京都の街とは別天地のような閑散である。
まさに世界的に進行している大都市集中、地域格差問題の縮図のような地方都市である。
駅から徒歩15分ほどで、伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)、仲哀天皇など七柱の祭神を祭っているという気比神宮には着く。
門前の大鳥居は、春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造鳥居とのこと、確かにその風格を備えている。
本殿を参拝し、芭蕉の立像、句碑にしばし脚を留め、そのあと旧敦賀港駅舎へ行く。
Ⅰ ヨーロッパへの玄関口
本駅舎は、かって金ヶ崎の鉄道桟橋にあった「金ヶ崎驛」舎を模して1999年に再現されたものであるが、駅舎内が資料館となっている。
館内の資料に依れば、
・1882年(明治15)「金ヶ崎驛」の開業(1919年「敦賀港驛」と改称)
・1891年(明治24)シベリア鉄道(モスクワーウラジオストック)建設着工
・1902年(明治35)にウラジオストックとの間の定期航路開設
・1912年(明治45)新橋驛ー金ヶ崎驛間に欧亞国際連絡列車の運行
とある。
従来はインド洋経由パリまで約40日かかっていた海路旅程が、1904年のシベリア鉄道の全線開通により大幅に短縮されたのである。
当時の時刻表に依れば、この欧亞国際連絡列車は毎週、日、火、水の21:00に新橋驛を発し、金ヶ崎には翌日の11:00に到着、その日に敦賀を出航するという連結で、新橋—パリ間を17日で行けたらしい。
1910年には駐日ロシア領事館も開庁され、大正期以降は、週3回もの定期便が往来し、その利便性、片道7円という経済性から、気の利いた俄商人の「下駄履き渡航」といわれていたようだ。
往時は、全く今の世からは想像もつかない、国際都市・敦賀の賑わいぶりである。
Ⅱ 北前船のつるがの津
古来、敦賀は北国と畿内を結ぶ重要な中継地である。
近江商人を中心に栄えたいわゆる北前船は、昆布、鰊、海鼠などの北国の海産品を畿内に運ぶ重要拠点であった。北前船から陸揚げされたいわゆる「上り荷」は、陸路山中峠を越え(七里半越)、琵琶湖北岸の梅津や塩津に運ばれ、そこで再び船に積み替えられ、大津で陸揚げして、京、浪華に運ばれたのである。
また、琵琶湖より瀬田川、宇治川を経るいわゆる淀川水系を下り、浪華に運ばれていた。
京・浪華から北国諸藩への下り荷は、陶器や漆器・反物・着物など。
敦賀はまさにダイナミックな水上交通の中継地であったのだ。
(PHP研究所 提供)
Ⅲ 渤海との交流
渤海国(698〜926)は、日本の歴史教育の偏りから、あまり知られてはいないが、高句麗滅亡(668年)の10年後に、その末裔(?)の大 祚栄(粟末靺鞨族)によって建国され、唐からは「海東の盛国」といわれとように、200年余に亘り周辺国との公益で栄えた王朝であり、日本との交流も深かった。
歴史上、日本海を通じた大陸との交流が一番盛んであったのは、この渤海の時代であることは殆ど知られていない。また、かの有名な遣唐使とほぼ重ね合わせて、しかもほぼ同数の13回の使節団(送渤海使)を派遣しているのだ。
因に、渤海国派遣の国使は、727年に初めて来航して以来919年までの約200年間に34回も来航している。
渤海としては、新興の新羅を牽制し、大国・唐とのパワーバランスを保つ為に、日本(奈良、平安朝)と提携することが必要であったし、日本にとっても新羅を北方から牽制する勢力として渤海に期待し、その来日を歓迎したのである。
渤海国からの「日本道」は、渤海の都・上京龍和泉府(吉林省寧安)を出て山中を通り、東京竜原府(吉林省琿春)に入り、沿海の塩州(ロシア沿海州のクラスキノ)から船出する。そして冬期の北西の季節風と日本海西岸を南下するリマン海流に乗っていったん朝鮮半島の東岸沿いに南下し、リマン海流から対馬海流に乗り換えて日本列島に沿って北上し、能登半島への着岸を目指してやってきたのだ。
ただ日本の外交の窓口はあくまで大宰府であり、日本側としては、能登半島や秋田、 北海道などへ行かれると困るとしていたが、うまく大宰府に着くことができず、 能登の福良津、敦賀が主流となったようだ。同地には、客館も設けられていた由。
この渤海国は、最期はモンゴル系の契丹(遼)により滅亡したが、農耕系やツングース系(半農半猟)はどうやらモンゴル系には勝てないというのが、私見である。
中国然り、漢民族王朝は三国時代を経て、五胡十六国という南北分裂状態の結果ほぼ政権から後退し、その後の北朝、そして随、唐王朝を政権を握ってきたのは、他ならずモンゴル系の鮮卑族である。
ふと、以前に仙台勤務していたおり訪れた多賀城の碑文にある突飛な国名を思い出す。
多賀城 去京千五百里
去蝦夷国界一百二十里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
ということは、靺鞨(渤海)国から渤海使として出羽辺りに到着した役人の何人かが多賀城内に移住、陸奥国へ仕官トラバーユしたのだろうか。
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その後、金ヶ崎城址・月見御殿まで登り、最後に気比の松原を散策。東から西まで市街地をほぼ踏破したが、舗道を歩いている人は私以外に誰もなしという状況だった。
2014年11月19日水曜日
高倉健さん 逝くか! 我行精進・・・
昨日、高倉健死去との報道に吃驚。
しかも、1週間少し前の11月10日になくなっていたとの、後日公表であった。彼らしく、静かに旅立たれたということだろうか。
あの頑強な身体で83歳とは、早すぎる。
健さんといえば、会社に就職して間もない1970年当時、高倉健ファンの友人に誘われ、「昭和残侠伝」シリーズを何本か見た時のことが思い出される。
不条理な仕打ちに耐え、遂には復讐をはたすときの台詞、『死んでもらいます』には、涙がでそうなぐらい全身が震えたものである。
そして、映画が終わり外へ歩きだすときには、自分がひと回り大きくなったようにも覚え、背筋も伸び、暫しその余韻に浸っていたものだった。
また、1980年代後半、私が中国で仕事をしていたおり、少なからずの中国の友人から、高倉健に似ているといわれたことも懐かしい。
文化大革命の余韻まださめやらぬ80年代の中国では、生で見かける日本人はまだほんのわずか。決して私は彼のようなハンサム・ガイではないが、無駄口を叩かず着々と仕事を進めていく下向きさが、「君よ憤怒の河を渉れ」のヒロイン・高倉健とダブったのかもしれない。
因に、「君よ憤怒の河を渉れ」は、裏切り、陥れなどの冤罪がはびこった文革の悪夢、まさに不条理をはらすヒロイン・高倉健のことが中国人の心を大きく揺さぶり全土の大ヒットとなったのであろう。
手元に、健さんのスナップ写真(1990年8月)が一枚だけある。
六四(天安門)事変以降、急激に日本を始めとする海外からの投資が冷え込んでいて、北京に日系の日本料理店はまだ1〜2店舗しかなかったころ。
私が建設段階から担っていた開業間もないホテルの日本料理店に、健さんがやってきたときのものである。
当時の中国政府はあらゆる縁、関係を手繰って海外投資・貿易再開運動をやっていて、恐らくその一環に応えて、健さんも中国を再訪したのであろう。
ホテルの従業員の後ろにそっと立っている光景が健さんらしい。
健さんが、「僕自身が長い間、心に刻んで大切にしてきた言葉」という次のフレーズがジンと心に沁みる。
我行精進 忍終不悔
われ精進の道をゆく 忍びて終わるも悔いはせず
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