昨日、高倉健死去との報道に吃驚。
しかも、1週間少し前の11月10日になくなっていたとの、後日公表であった。彼らしく、静かに旅立たれたということだろうか。
あの頑強な身体で83歳とは、早すぎる。
健さんといえば、会社に就職して間もない1970年当時、高倉健ファンの友人に誘われ、「昭和残侠伝」シリーズを何本か見た時のことが思い出される。
不条理な仕打ちに耐え、遂には復讐をはたすときの台詞、『死んでもらいます』には、涙がでそうなぐらい全身が震えたものである。
そして、映画が終わり外へ歩きだすときには、自分がひと回り大きくなったようにも覚え、背筋も伸び、暫しその余韻に浸っていたものだった。
また、1980年代後半、私が中国で仕事をしていたおり、少なからずの中国の友人から、高倉健に似ているといわれたことも懐かしい。
文化大革命の余韻まださめやらぬ80年代の中国では、生で見かける日本人はまだほんのわずか。決して私は彼のようなハンサム・ガイではないが、無駄口を叩かず着々と仕事を進めていく下向きさが、「君よ憤怒の河を渉れ」のヒロイン・高倉健とダブったのかもしれない。
因に、「君よ憤怒の河を渉れ」は、裏切り、陥れなどの冤罪がはびこった文革の悪夢、まさに不条理をはらすヒロイン・高倉健のことが中国人の心を大きく揺さぶり全土の大ヒットとなったのであろう。
手元に、健さんのスナップ写真(1990年8月)が一枚だけある。
六四(天安門)事変以降、急激に日本を始めとする海外からの投資が冷え込んでいて、北京に日系の日本料理店はまだ1〜2店舗しかなかったころ。
私が建設段階から担っていた開業間もないホテルの日本料理店に、健さんがやってきたときのものである。
当時の中国政府はあらゆる縁、関係を手繰って海外投資・貿易再開運動をやっていて、恐らくその一環に応えて、健さんも中国を再訪したのであろう。
ホテルの従業員の後ろにそっと立っている光景が健さんらしい。
健さんが、「僕自身が長い間、心に刻んで大切にしてきた言葉」という次のフレーズがジンと心に沁みる。
我行精進 忍終不悔
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