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2014年12月2日火曜日

高句麗の古都を訪ねて ・・ その2 丸都(集安)

 五女山城を下り、3時過ぎに桓仁を出て、その日の宿泊地・集安には夜の7時頃着いた。道中は山道の連続で、舗装状態も悪く、上下揺れを頻繁に強いられ、着いた時は腰痛寸前であった。
 集安の人口24万人とか、やっとこさ深い山奥からそこそこの都会に出てきた安心感と、投宿の「香港城暇日大酒店」のFacilityの良さで、まさに一息ついた。


 翌7日、集安の地元ガイドを別途追加で雇い、丸一日を当てて丸都の山城、国内城ほか、幾つかの史跡を巡る。

 丸都は、2代の瑠璃明王が隣国に在った扶余の圧力を避けるため、西暦3年、鴨緑江岸の丸都山の山城へ遷都したところである。その後、山を下り、平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、丸都時代の後期には専ら緊急避難目的として使用されたようである。


周囲約7kmあるという城壁の多くが遺っている


物見要塞跡

山頂より国内城(平城)を望む



 中腹には、緊急時の宮殿の跡地が廃墟となって遺っていた。
 また、城の麓には、30数個もの古墳群がある。石墳あり、土盛り墳ありで、これは埋葬風俗の変遷なりや?! 5〜7世紀の王族や貴族のものとのことで、「山城下貴族墳」との碑石あり。




 平城の方の遺跡は殆どなく、辛うじて幾つかの城壁らしきものが遺っているだけだった。






 
 この国内城を出て東方へしばらく行ったところに、「将軍墳」という、第20代長寿王の大規模な石墳がある。長寿王といえば、彼の代の427年、父親の広開土王の南下政策の志を受けて、この丸都から平壌に遷都した王である。

 因に中国では、その辺の成り上り者・劉裕に取って代わられた東晋が滅びたのが7年前の240年であり、その後、宋、斎、梁、陳と延命した南朝(都は建業)は、結局、589年に鮮卑系の楊堅(北周→隋)によって滅ぼされた。
 
 まさに6〜7世紀はHi-Bridの鮮卑の天下の始まりであり、ツングース系の南進の始まりでもある(本稿のその1 参照)。


長寿王の将軍塚



 その後、すぐ近くの超有名な「広開土王(好太王)碑」へ行く。
 かっては野ざらしであったが、今やガラス張りのショウケースに入れられて保護されているが、中へ入って観ることは可能だ。

 いや〜、実にでかい!
 どのようにしてここまで運んできたか、また、どのようにこんな重い石を立てたのか、しかも441年以来千数百年もの間、ずっと倒れないように立てておく技術たるや?!!
 
 高さ6.9m 重さ37ton 隷書体の総文字数は1775
その内、解読可能数は1590字とのこと。
  

 
 かっての日本の国内で、大和王建が高句麗を攻めたとか攻めないとか、国粋派を含む学者間で論争の激しかった一節

「・・百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民


それが、正面の第一面の8行目下段から9行目の中段にあることを認識し、なんとなく「観たぞ」との満足感に浸る。

 
* この解釈詳細についての論評は、松本清張の『空白の世紀』(講談社)が一番面白いと思う。


 

 このあと市街地の方へ戻り、集安駅の近くの「禹山貴族墓地」を訪れた。

 6〜7世紀の高句麗の晩期に造られた五つの古墳があって、そのなかの「五号墳」のみが公開されている。

 石室内は写真撮影NGなので、今や手元のメモだけが頼りであるが、室内の大きさは大人数人ぐらいが入れる大きさで、壁面には、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の四大神が描かれている。それに、十二支
もある。


 

後で知ったことであるが、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳にもこの四大神があるとのこと。


《文化庁のHPより》
高松塚古墳:7世紀末から8世紀初めに築造された古墳であり,石室内部(内法:奥行2.6メートル,幅1.0メートル,高さ1.1メートル)に星辰(星宿)図,日月像及び四神図,人物群像(女子群像,男子群像)が描かれた壁画古墳である。

キトラ古墳:7世紀末頃の壁画古墳。古墳の天井に描かれている天文図は東アジア最古の現存例であり、青龍・白虎・玄武・朱雀の四神すべてが現存している例は国内初。
 四神の下に人身獣首の十二支像も描かれており、歴史的・学術的にも価値の高いものである。




 





高句麗の古都を訪ねて ・・ その1 卒本(桓仁)


 Blog Upが延び延びとなったが、初秋の9月初め、友人二人と中国の東北省にある高句麗の古都 2カ所を訪ねた。

 一つは高句麗初期の都城である卒本(五女山)城(現在 遼寧省本渓市桓仁満族自治県)と、もう一つは高句麗前期の丸都城(現在の吉林省集安市)である。

 こんなマイナーな場所に何故ってということだが、最近になって、この古都が世界文化遺産に登録されていることを知り、山岳の僻地であってもそれなりの治安が維持されていて、個人旅行が可能だと思われること、また近年、東アジア関連の歴史本を読みだしている中で、大和王権の主体者はこの高句麗系統ではないかと思うようになったからである。

 因に、高句麗は、朝鮮最古歴史書「三国史記」に依れば、紀元前37、朱蒙(Zhu Meng)こと、東明聖王により建国され、卒本(五女山)城を都とする。
 
 始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙(一云鄒牟、一云衆解)。


 その後の西暦3、第二代瑠璃明王のとき、鴨緑江沿岸の丸都山城(集安)に遷都。
 そして、427平壌に再び遷都し、668新羅連合軍によって滅亡したとのこと。

 まさに山岳地帯での狩猟生活をベースとしていたツングース系民族の高句麗王権は、権力の強大化、人口の増加とともにより安定的な平地での農耕生活へとシフトしていったのである。
 またこの丸都、平壌時代というのは、漢の滅亡、三国分裂、南北朝へと中国の分裂、弱体化が進行した3〜6世紀であり、北方民族の南下が東アジア全体に吹き荒れた時代でもある。


 私感ではあるが、鮮卑族(種族系統は不明であるが、トルコ、モンゴル、ツングースのHi-Brid系でなないか?!)があの大国・中国を征服し隋・唐王朝を建てたことも、高句麗の南進に大きな影響を与えたのではないかと思う。

 それに、ツングース系というのは、モンゴル高原の大草原地帯を生活基盤として専ら遊牧を営むモンゴル系と違い、その東方の山岳地帯(現在の東北三省)を根城に定地狩猟と農耕をベースにした柔軟な頭脳と高い環境適応能力を備えている人種ではないかと思えるのだ。

 近世、中国の清朝を構築した女真がツングース系であることはつとに有名であるが、それ以外にも歴史上に登場するツングース系民族・国家と考えられているものとして、8〜9世紀靺鞨(渤海、さらに遡る1〜7世紀の高句麗を始め、粛慎 勿吉 穢貊 扶余 沃沮 百済などである。
 
 日本の大和王権は、この高句麗(&百済)の有力者の手により出来上がったのではないかと思われる。加えて、唐、新羅の挟み撃ちによる百済の滅亡(660年)や高句麗(668年)の滅亡の前後に、多くの一般市民(難民)が日本に渡ってきたことは想像に難くない。

 日本の地図をひっくり返してみると、北方の丸都、平壌から対馬、壱岐を経由して倭国(九州一帯)、さらには瀬戸内海を通り、難波津から大和川を遡る奈良飛鳥へのルートがなんとなく無理のない自然の通路のように見えてくるのが不思議である。

 



                                                              
   そして701年の大宝律令、710年の平城京遷都、720年の日本書紀編纂へと日本の歴史が流れていく。

        ー ー ー ー ー
 


 9月4日、成田から瀋陽に入り、清王朝の始祖・愛新覚羅ヌルハチの陵墓である昭陵をはじめ、瀋陽故宮博物院、張氏帥府(張作霖・学良の住居跡)などを、2泊3日で歩き回る。

 9月6日の朝8:00、現地ガイドと運転手に乗っかり、瀋陽より東方の桓仁に昼過ぎに着き、農民経営のレストランで食した後、五女山城に登る。

 その名の通り、五女山という山に築かれた山城であり、山上には、城壁、石塁等が遺されていて、高句麗建設の最初の卒水城に比定されている
 






頂上から見る集落地帯




集落から見る五女山城



 桓仁を3時過ぎに出て、その日の宿泊地・集安に向かう。


 * Google Map から切り出した高句麗の南進の三都:卒本、丸都、平壌の航空写真(縮尺は三枚とも同率)を揚げておく。
 卒本と平壌は、湾曲した河川が酷似。


五女山城は画面の右端上部 河川は 渾江




丸都山城は画面の左端上部 国内城はその下部
 河川は鴨緑江




平壌 河川は大同江