Blog Upが延び延びとなったが、初秋の9月初め、友人二人と中国の東北省にある高句麗の古都 2カ所を訪ねた。
こんなマイナーな場所に何故ってということだが、最近になって、この古都が世界文化遺産に登録されていることを知り、山岳の僻地であってもそれなりの治安が維持されていて、個人旅行が可能だと思われること、また近年、東アジア関連の歴史本を読みだしている中で、大和王権の主体者はこの高句麗系統ではないかと思うようになったからである。
因に、高句麗は、朝鮮最古歴史書「三国史記」に依れば、紀元前37年、朱蒙(Zhu Meng)こと、東明聖王により建国され、卒本(五女山)城を都とする。
始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙(一云鄒牟、一云衆解)。
その後の西暦3年、第二代瑠璃明王のとき、鴨緑江沿岸の丸都山城(集安)に遷都。
まさに山岳地帯での狩猟生活をベースとしていたツングース系民族の高句麗王権は、権力の強大化、人口の増加とともにより安定的な平地での農耕生活へとシフトしていったのである。
またこの丸都、平壌時代というのは、漢の滅亡、三国分裂、南北朝へと中国の分裂、弱体化が進行した3〜6世紀であり、北方民族の南下が東アジア全体に吹き荒れた時代でもある。
私感ではあるが、鮮卑族(種族系統は不明であるが、トルコ、モンゴル、ツングースのHi-Brid系でなないか?!)があの大国・中国を征服し隋・唐王朝を建てたことも、高句麗の南進に大きな影響を与えたのではないかと思う。
それに、ツングース系というのは、モンゴル高原の大草原地帯を生活基盤として専ら遊牧を営むモンゴル系と違い、その東方の山岳地帯(現在の東北三省)を根城に定地狩猟と農耕をベースにした柔軟な頭脳と高い環境適応能力を備えている人種ではないかと思えるのだ。
近世、中国の清朝を構築した女真がツングース系であることはつとに有名であるが、それ以外にも歴史上に登場するツングース系民族・国家と考えられているものとして、8〜9世紀の靺鞨(渤海)、さらに遡る1〜7世紀の高句麗を始め、粛慎 勿吉 穢貊 扶余 沃沮 百済などである。
日本の大和王権は、この高句麗(&百済)の有力者の手により出来上がったのではないかと思われる。加えて、唐、新羅の挟み撃ちによる百済の滅亡(660年)や高句麗(668年)の滅亡の前後に、多くの一般市民(難民)が日本に渡ってきたことは想像に難くない。日本の地図をひっくり返してみると、北方の丸都、平壌から対馬、壱岐を経由して倭国(九州一帯)、さらには瀬戸内海を通り、難波津から大和川を遡る奈良飛鳥へのルートがなんとなく無理のない自然の通路のように見えてくるのが不思議である。
そして701年の大宝律令、710年の平城京遷都、720年の日本書紀編纂へと日本の歴史が流れていく。
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9月4日、成田から瀋陽に入り、清王朝の始祖・愛新覚羅ヌルハチの陵墓である昭陵をはじめ、瀋陽故宮博物院、張氏帥府(張作霖・学良の住居跡)などを、2泊3日で歩き回る。
9月6日の朝8:00、現地ガイドと運転手に乗っかり、瀋陽より東方の桓仁に昼過ぎに着き、農民経営のレストランで食した後、五女山城に登る。
その名の通り、五女山という山に築かれた山城であり、山上には、城壁、石塁等が遺されていて、高句麗建設の最初の卒水城に比定されている。
桓仁を3時過ぎに出て、その日の宿泊地・集安に向かう。
五女山城は画面の右端上部 河川は 渾江
丸都山城は画面の左端上部 国内城はその下部
河川は鴨緑江
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