彼岸明けの9月の週末、以前から気になっていた岩槻(さいたま市岩槻区)の慈恩寺を訪れた。
慈恩寺といえば、私にとっては何度か訪れている中国西安の大慈恩寺が連想され、それがなんのゆかりで埼玉にもあるのかとの思いであった。
事前の下調べによると、岩槻の慈恩寺は、西安の大慈恩寺(隋代の建造)より200年ほど後年の天長元年(824年)に、円仁(794~864年)により開かれた寺院とのこと。
円仁を概略すると、彼は下野國(栃木県)の人で、空海や最澄らより少しあとの平安前期の僧。15歳で比叡山の最澄に師事、45歳になって最後の遣唐使船(838年)で唐に留学。そして帰国後には、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺等も開山したといわれている。
真言宗、天台宗だの、慈覚大師だの仏教に門外漢の私にはただ、彼が入唐から帰国までの9年半を日記スタイルできめ細かく記した『入唐求法巡礼行記』の著者であることに興味を惹かれたのである。
この日記スタイルの中国旅行記は日本では案外知られてないが、当時の唐代の中国事情を忠実に記述していて、それから400年後の元代の中国事情を記したあのマルコ・ポーロの『東方見聞録』よりはるかにリアル感があり、長年中国駐在していた私には親近感を覚える。
余談ながら、1960年代に駐日米国大使であったライシャワー氏はこの『入唐求法巡礼行記』を博士論文のテーマとしている。
岩槻訪問の関心事の一つは、岩槻の慈恩寺はどういう風景、風格をしたお寺かなというもの。
当然、広大な大陸風土の中の西安大慈恩寺とは趣を異にすることへの心構えはできていたので、その落差については大した驚きはなかった。しかし、週末にも拘わらず、参拝者は私のほかに誰もなし。過度な期待は毛頭しないものの、寺全体はなんとなく寂れた感が否めない。
岩槻の慈恩寺
関心事の二つ目は、あの『西遊記』の三蔵法師こと玄奘(602~664年)の遺骨の一部が安置されている寺とのこと。どうしてまた、玄奘の遺骨が???
その所以は、第二次世界大戦のさなかの1942年(昭和17年)、南京の中華門外に駐屯していた日本軍が稲荷神社を建立すべく丘を整地していたおり石棺を発掘、そのなかの玄奘三蔵法師の頂骨を発見した由。そしてその遺骨は蒋介石南京政府に還付し、一部を日本へ持ち出し、分骨とされた。とりあえず芝増上寺に安置されたが、戦後になり三蔵法師と縁の深いこの岩槻の慈恩寺が最適地だとして奉安されたらしい。
この頂骨は更に、1975年蒋介石時代の中華民国台湾へ、1981年に奈良の薬師寺へと分骨されている。薬師寺では慈恩寺同様に、その際新たに「玄奘三蔵院伽藍」が建造されたが、2010年11月に薬師寺を訪れた印象は、その風格といい、観光客の顔ぶれといい、なんとなくしっくりこず、平山郁夫の「大唐西域壁画」がやけに目立ったような覚えがある。
薬師寺の玄奘三蔵院伽藍
この三蔵法師こと玄奘さん、中国明代に書かれた一種のアドベンチャー長編小説『西遊記』の中で登場はしてくるが、スーパーマン的能力を発揮する「孫悟空」の主役的存在感があまりにも強いために脇役に追いやられていて、日本では知名度が今一つの感である。しかし、歴史上では彼こそ仏教求法・伝来の偉大なる開拓者であり、貢献者であるのだ。
因みに、この三蔵というのは固有名詞ではない。「玄奘塔にある玄奘とは三蔵法師のことである」と思い込んでいる人も多いが、三蔵とは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶に与えられる尊称、すなわち職名なのである。
先に触れたように、玄奘(姓は陳)は隋代の生れ。唐代の貞観3年(629年)、なんと27歳の若さで、仏教求法のために国禁を犯して出国。西安から一路西へ西へと河西回廊、天山北路を歩き、バーミヤン(アフガニスタン)、ペシャワール(パキスタン)を経て天竺(インド)に渡った。その行程は、荒漠たる熱砂のタクラマカン砂漠あり、万年雪の覆うパミール高原あり、並大抵のものでなく、そこを2年もかけて徒歩で行ったとはまさに超人的強者!そしてナーランダ寺院で5年にわたり仏法を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て、貞観19年(645年)、膨大な経典を長安に持ち帰ったのである。
この遠隔地への、かつ長期の留学旅程はなんと、あしかけ17年という長期間であり、それを記した『大唐西域記』は旅行記というより当時の貴重な地理調査書といえるものである。また、帰国後の人生は亡くなるまでひたすら、経典の整理、翻訳に没頭したというのだから、恐れ入る。いくら時代が違うといってもその熱意と強靭な根性は、敬服を通り越して呆れんばかりである。
円仁といい、玄奘といい、さらには何度かの挑戦の上日本への入国を成し遂げた(753年)鑑真和上といい、新しいもの、より高度なものを求め、また強い使命感を持って国を超え足元の悪い長丁場を旅していくその情熱と体力、忍耐力には頭が下がる。
近頃歳をとったもんだな~とか、加齢でどうたらとか、言えたものではない。特に、留学や海外勤務を避け、何事にも汗をかかず安易にやり過ごすという近年の風潮は、一人間としての怠惰、後退ではないかと私には写る。
この岩槻訪問で意外だったのは、西安のシンボルとして大慈恩寺に聳え立つ大雁塔を模した玄奘塔が慈恩寺の境内にはなく、そこから数百メートルほど離れた、田んぼに囲まれた高台に建立されていたことである。
西安の大雁塔は、玄奘が持ち帰った経典が散逸・消失せぬよう保管の為に、時の高宗皇帝に陳情して建てられたもので、内部は高層階まで登れるようになっている。一方、岩槻の玄奘塔は戦後になってから追加的に建てられたもので、圧倒的なスケールの差があることやむを得ないが、せめて慈恩寺の境内か隣接地に建立すればよかったのにと、些か悔やまれる。
興味半分に、西安の大雁塔と岩槻の玄奘塔を並べてみると・・・
そのスケール、周辺の自然環境等、受け取るイメージは全く違うが、塔と玄奘さんの像との対比アングルは、結構上手く似せていることに感心する。
西安の大雁塔と玄奘像
岩槻の玄奘塔と像
玄奘塔を参観したあとの帰り道を歩いていると、その道端でお地蔵さんと巡り会う。なんとなく、玄奘像よりこちらの方がずっと、土地の人に愛され、その風土、文化にしっかりと根ざしているようなのが、玄奘像と対照的であった。
やはり日本人には、唐人の玄奘さんよりお地蔵さんか!