今夏のある日、NHK TVで新日本風土記「東京の地下」という番組を、みる機会があった。
近年の驚愕的発展を遂げる地下商店街に始まり、地球3周分にも相当するという地下鉄13路線、有機野菜栽培の農場等、誠に印象深いルポ作品であった。
その一つとして、あの永田町の国会図書館の新館地下書庫も紹介され、
それはなんと8階という前代未聞の深さだ。
その地下書庫はほとんど、戦前に上野の帝国図書館から長野へ疎開搬出され、
そして戦後になって戻ってきた書籍の保管庫に当てられているとのこと。
『ええっ! 書籍も疎開してたのか〜 』
恥ずかしい哉、戦後生まれの私は、この歳になって初めて知った次第。
疎開といえば、戦前生まれの人には様々な思い出があるだろうが、
私には親から聞かされた苦労話から想像を巡らす程度。
ましてや平成生まれの世代にはほとんど死語と化しているのではないだろうか?
因みに、国会図書館蔵書にあった「長野県立図書館ニ搬出セル疎開図書目録」によると、「1943年(昭和18)から終戦前後までに、30万冊に及ぶ大規模な疎開を実施。
その疎開先は長野県立飯山高等女学校、山形県下の個人宅土蔵、帝室博物館地下室などであった」とある。
更に、「第四次図書地方疎開ニ関スル覚書」には、「終戦間際、8万冊を超える第四次図書地方疎開が計画され、疎開先の山形へ向けて、秋葉原駅への搬出を完了した」とあることより、約40万冊を疎開させたということだ。
色々読み漁るうち、都立日比谷図書館も戦禍を逃れるために、
1944年から45年にかけ蔵書40万冊を疎開させたということを知った。
それは帝国図書館とは違い、図書館員を始め都立一中(現・日比谷高校)の中学生たちが、
リュックや大八車を押して、50キロ離れた奥多摩や埼玉県志木市に何度も足を運ぶという過酷を極める大疎開であったらしい。
その後、昭和20年5月、焼夷弾によって日比谷図書館は全焼、蔵書20万冊が図書館と運命をともにしたが、疎開した40万冊の本は助かったのである。
この辺の事情は「疎開した40万冊の図書」という題で岩波が映画化(2013年)している。
ふと、中国の故宮文物の疎開が思い出される。
故宮文物は、戒厳令下の台湾にホームステイしていた大学4年の時が最初の見学。
まだ青臭い未成熟青年には骨董品的な文物への興味、知識も薄く、大した感動もなし。
ただ、『蒋介石はよくもまぁ、こんなものを大陸から持ち逃げしてきたもんだわい』とその貪欲さに呆れかえった程度の感想。
文物参観2回目は、開放間もない1983年の北京であった。
故宮の一角に設営された珍宝館に入場無料で入ったはいいが、100点にも満たないぐらいの陳列物の少なさに唖然。文化大革命の余韻の残る状況下とはいえ、まさにもぬけの殻的な寂寥感溢れる有様であった。
ところが、職を引いてからの晩年、陳舜臣の「青玉香炉」(1969年直木賞)を読む中で、
あの故宮文物は、戦禍から文化財保を守るという篤い心から広大な中国大陸内を転々と避難・疎開させていたことを知らされたのである。
てっきり1949年に蒋介石自らが台湾へ逃げ出る際に、北京からこっそり台湾へ持ち逃げしたものと単純に考えていたが、識者の文物保護への情熱と並々ならぬ苦労、そしてその疎開、逃避行のダイナミックさに触れ、大いに感動したものだ。
故宮文物大移動(文物遷運)ならぬ大疎開をもう少し詳しくみてみると・・・
1、故宮博物院の設立
中華民国政府は、1925年、溥儀を紫禁城より追放し、城内の文物を接収、一般向けに展覧を開催。爾来歴代皇室と宮廷が所蔵していたコレクションが中華文化遺産として永く後世に伝えられ、今や台北や北京で鑑賞できるようになったこと、衆知の通り。
2、延々の文物疎開・逃避行
① 南遷
1931年(昭和6)の満州事変により、首都北平(北京)の情勢が極めて危うくなり、1933年2月より計五回に分けて、希代の文物計13,427箱と64包を上海の仏英租界地へ緊急避難させる。
1936年8月、突貫工事で南京朝天宮に建設していた故宮分院保存庫が竣工すると、三年半余り上海に仮置きしていた文物を上海租界から南京へ搬入。この保存庫は機械による温湿度制御が可能な三階建の鉄筋コンクリート造りで、そこでようやく安住の地を得る。
② 西遷
かくして安全安心(安全安心の文字上に・・・・をつける)を獲得したものの、1937年の盧溝橋事件の勃発によりまたもやの危機に陥り、再度、三つのルートに分散して避難させる。
● 一組目(南路) ロンドンでの中国芸術展の出展(1935.11〜1936.2)を終えて戻ってきた
80箱を第一便として運びだす。
湖北省漢口を経て長沙へ。さらに桂林を経由して貴州省貴陽に運んだ後、
さらに四川省巴県へ避難。
● 二組目(中路) 主として水路を利用した大量輸送が可能なルート。
湖北省漢口を経て宜昌へ。さらに四川省重慶、宜賓を経由し楽山へ避難。
● 三組目(北路) 主として陸路の輸送で困難を極めるルート。
江蘇省徐州、鄭州、西安 陝西省宝鶏へ。漢中を経て四川省成都へ。さらに峨嵋へ再避難。
抗日戦争期間中、国内外の展覧会には幾度か参加しながらも、出来るだけ奥地へということで、湖南省の長沙、湖北省宜昌、陝西省宝鶏へ避難するも、尚、安全安心には程遠いとし、最終的には四川省の中でも取り分け山深い三つの奥地に安住の地を求め逃避行を重ねたのである。
そして14年にも及ぶ抗日戦勝利の後、西遷した文物はまずは重慶に集結させ、その後、水路で南京に運び、全てを戻し終えたのが1947年年末。約10年ぶりの復員となった。
因みに、北京—上海の疎開距離はざっと1400km、上海—南京 約300km、南京—四川の三ルートは1500-2000km。東京—博多間の1000kmから見て、その総距離たるや、気の遠くなるような数字である。
③ 東遷
しかし、この安住はまたもや長くは続かない。
今度は国共内乱が激化、形勢が逆転し、国民党政府は文物を台湾へ移すことになる。
1948年末から1949年春、3回に分けて総数2972箱を台湾に移送し、暫時、台湾糖業股份有限公司台中製糖工場の倉庫等に一時保管。
翌1950年、台中霧峰の北溝山麓の地に文物倉庫が完成したのに伴い、すべての文物を北溝倉庫に移し、点検整理。
1965年、台北市外双渓に建設された新館(現在の故宮博物院)に移転され一般公開、以降現在に至る。
あれから70年!
昨今、台湾海峡の情勢が物々しくなりつつあるのが気になる。
中国民衆の殆どが、実におぞましい負の時代だったとする文化大革命の愚をまたもや起こさないと信じるが、戦争というものは大衆の平常心をいとも簡単に捻じ曲げ、変異させる魔力がある。故にひたすら、そういう戦争状態に陥らないことを望むばかりである。
【2021年11月末日 記】