折々の 中国紀行
2025年6月6日金曜日
台北春遊 その2
台北春遊
2024年11月30日土曜日
玄奘と円仁 ・・・岩槻・慈恩寺を訪ねて
彼岸明けの9月の週末、以前から気になっていた岩槻(さいたま市岩槻区)の慈恩寺を訪れた。
慈恩寺といえば、私にとっては何度か訪れている中国西安の大慈恩寺が連想され、それがなんのゆかりで埼玉にもあるのかとの思いであった。
事前の下調べによると、岩槻の慈恩寺は、西安の大慈恩寺(隋代の建造)より200年ほど後年の天長元年(824年)に、円仁(794~864年)により開かれた寺院とのこと。
円仁を概略すると、彼は下野國(栃木県)の人で、空海や最澄らより少しあとの平安前期の僧。15歳で比叡山の最澄に師事、45歳になって最後の遣唐使船(838年)で唐に留学。そして帰国後には、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺等も開山したといわれている。
真言宗、天台宗だの、慈覚大師だの仏教に門外漢の私にはただ、彼が入唐から帰国までの9年半を日記スタイルできめ細かく記した『入唐求法巡礼行記』の著者であることに興味を惹かれたのである。
この日記スタイルの中国旅行記は日本では案外知られてないが、当時の唐代の中国事情を忠実に記述していて、それから400年後の元代の中国事情を記したあのマルコ・ポーロの『東方見聞録』よりはるかにリアル感があり、長年中国駐在していた私には親近感を覚える。
余談ながら、1960年代に駐日米国大使であったライシャワー氏はこの『入唐求法巡礼行記』を博士論文のテーマとしている。
岩槻訪問の関心事の一つは、岩槻の慈恩寺はどういう風景、風格をしたお寺かなというもの。
当然、広大な大陸風土の中の西安大慈恩寺とは趣を異にすることへの心構えはできていたので、その落差については大した驚きはなかった。しかし、週末にも拘わらず、参拝者は私のほかに誰もなし。過度な期待は毛頭しないものの、寺全体はなんとなく寂れた感が否めない。
岩槻の慈恩寺
関心事の二つ目は、あの『西遊記』の三蔵法師こと玄奘(602~664年)の遺骨の一部が安置されている寺とのこと。どうしてまた、玄奘の遺骨が???
その所以は、第二次世界大戦のさなかの1942年(昭和17年)、南京の中華門外に駐屯していた日本軍が稲荷神社を建立すべく丘を整地していたおり石棺を発掘、そのなかの玄奘三蔵法師の頂骨を発見した由。そしてその遺骨は蒋介石南京政府に還付し、一部を日本へ持ち出し、分骨とされた。とりあえず芝増上寺に安置されたが、戦後になり三蔵法師と縁の深いこの岩槻の慈恩寺が最適地だとして奉安されたらしい。
この頂骨は更に、1975年蒋介石時代の中華民国台湾へ、1981年に奈良の薬師寺へと分骨されている。薬師寺では慈恩寺同様に、その際新たに「玄奘三蔵院伽藍」が建造されたが、2010年11月に薬師寺を訪れた印象は、その風格といい、観光客の顔ぶれといい、なんとなくしっくりこず、平山郁夫の「大唐西域壁画」がやけに目立ったような覚えがある。
薬師寺の玄奘三蔵院伽藍
この三蔵法師こと玄奘さん、中国明代に書かれた一種のアドベンチャー長編小説『西遊記』の中で登場はしてくるが、スーパーマン的能力を発揮する「孫悟空」の主役的存在感があまりにも強いために脇役に追いやられていて、日本では知名度が今一つの感である。しかし、歴史上では彼こそ仏教求法・伝来の偉大なる開拓者であり、貢献者であるのだ。
因みに、この三蔵というのは固有名詞ではない。「玄奘塔にある玄奘とは三蔵法師のことである」と思い込んでいる人も多いが、三蔵とは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶に与えられる尊称、すなわち職名なのである。
先に触れたように、玄奘(姓は陳)は隋代の生れ。唐代の貞観3年(629年)、なんと27歳の若さで、仏教求法のために国禁を犯して出国。西安から一路西へ西へと河西回廊、天山北路を歩き、バーミヤン(アフガニスタン)、ペシャワール(パキスタン)を経て天竺(インド)に渡った。その行程は、荒漠たる熱砂のタクラマカン砂漠あり、万年雪の覆うパミール高原あり、並大抵のものでなく、そこを2年もかけて徒歩で行ったとはまさに超人的強者!そしてナーランダ寺院で5年にわたり仏法を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て、貞観19年(645年)、膨大な経典を長安に持ち帰ったのである。
この遠隔地への、かつ長期の留学旅程はなんと、あしかけ17年という長期間であり、それを記した『大唐西域記』は旅行記というより当時の貴重な地理調査書といえるものである。また、帰国後の人生は亡くなるまでひたすら、経典の整理、翻訳に没頭したというのだから、恐れ入る。いくら時代が違うといってもその熱意と強靭な根性は、敬服を通り越して呆れんばかりである。
円仁といい、玄奘といい、さらには何度かの挑戦の上日本への入国を成し遂げた(753年)鑑真和上といい、新しいもの、より高度なものを求め、また強い使命感を持って国を超え足元の悪い長丁場を旅していくその情熱と体力、忍耐力には頭が下がる。
近頃歳をとったもんだな~とか、加齢でどうたらとか、言えたものではない。特に、留学や海外勤務を避け、何事にも汗をかかず安易にやり過ごすという近年の風潮は、一人間としての怠惰、後退ではないかと私には写る。
この岩槻訪問で意外だったのは、西安のシンボルとして大慈恩寺に聳え立つ大雁塔を模した玄奘塔が慈恩寺の境内にはなく、そこから数百メートルほど離れた、田んぼに囲まれた高台に建立されていたことである。
西安の大雁塔は、玄奘が持ち帰った経典が散逸・消失せぬよう保管の為に、時の高宗皇帝に陳情して建てられたもので、内部は高層階まで登れるようになっている。一方、岩槻の玄奘塔は戦後になってから追加的に建てられたもので、圧倒的なスケールの差があることやむを得ないが、せめて慈恩寺の境内か隣接地に建立すればよかったのにと、些か悔やまれる。
興味半分に、西安の大雁塔と岩槻の玄奘塔を並べてみると・・・
そのスケール、周辺の自然環境等、受け取るイメージは全く違うが、塔と玄奘さんの像との対比アングルは、結構上手く似せていることに感心する。
西安の大雁塔と玄奘像
岩槻の玄奘塔と像
玄奘塔を参観したあとの帰り道を歩いていると、その道端でお地蔵さんと巡り会う。なんとなく、玄奘像よりこちらの方がずっと、土地の人に愛され、その風土、文化にしっかりと根ざしているようなのが、玄奘像と対照的であった。
やはり日本人には、唐人の玄奘さんよりお地蔵さんか!
2022年1月10日月曜日
灯火親しむの候・・ 『 疎開 』 を憶う
今夏のある日、NHK TVで新日本風土記「東京の地下」という番組を、みる機会があった。
近年の驚愕的発展を遂げる地下商店街に始まり、地球3周分にも相当するという地下鉄13路線、有機野菜栽培の農場等、誠に印象深いルポ作品であった。
その一つとして、あの永田町の国会図書館の新館地下書庫も紹介され、
それはなんと8階という前代未聞の深さだ。
その地下書庫はほとんど、戦前に上野の帝国図書館から長野へ疎開搬出され、
そして戦後になって戻ってきた書籍の保管庫に当てられているとのこと。
『ええっ! 書籍も疎開してたのか〜 』
恥ずかしい哉、戦後生まれの私は、この歳になって初めて知った次第。
疎開といえば、戦前生まれの人には様々な思い出があるだろうが、
私には親から聞かされた苦労話から想像を巡らす程度。
ましてや平成生まれの世代にはほとんど死語と化しているのではないだろうか?
因みに、国会図書館蔵書にあった「長野県立図書館ニ搬出セル疎開図書目録」によると、「1943年(昭和18)から終戦前後までに、30万冊に及ぶ大規模な疎開を実施。
その疎開先は長野県立飯山高等女学校、山形県下の個人宅土蔵、帝室博物館地下室などであった」とある。
更に、「第四次図書地方疎開ニ関スル覚書」には、「終戦間際、8万冊を超える第四次図書地方疎開が計画され、疎開先の山形へ向けて、秋葉原駅への搬出を完了した」とあることより、約40万冊を疎開させたということだ。
色々読み漁るうち、都立日比谷図書館も戦禍を逃れるために、
1944年から45年にかけ蔵書40万冊を疎開させたということを知った。
それは帝国図書館とは違い、図書館員を始め都立一中(現・日比谷高校)の中学生たちが、
リュックや大八車を押して、50キロ離れた奥多摩や埼玉県志木市に何度も足を運ぶという過酷を極める大疎開であったらしい。
その後、昭和20年5月、焼夷弾によって日比谷図書館は全焼、蔵書20万冊が図書館と運命をともにしたが、疎開した40万冊の本は助かったのである。
この辺の事情は「疎開した40万冊の図書」という題で岩波が映画化(2013年)している。
ふと、中国の故宮文物の疎開が思い出される。
故宮文物は、戒厳令下の台湾にホームステイしていた大学4年の時が最初の見学。
まだ青臭い未成熟青年には骨董品的な文物への興味、知識も薄く、大した感動もなし。
ただ、『蒋介石はよくもまぁ、こんなものを大陸から持ち逃げしてきたもんだわい』とその貪欲さに呆れかえった程度の感想。
文物参観2回目は、開放間もない1983年の北京であった。
故宮の一角に設営された珍宝館に入場無料で入ったはいいが、100点にも満たないぐらいの陳列物の少なさに唖然。文化大革命の余韻の残る状況下とはいえ、まさにもぬけの殻的な寂寥感溢れる有様であった。
ところが、職を引いてからの晩年、陳舜臣の「青玉香炉」(1969年直木賞)を読む中で、
あの故宮文物は、戦禍から文化財保を守るという篤い心から広大な中国大陸内を転々と避難・疎開させていたことを知らされたのである。
てっきり1949年に蒋介石自らが台湾へ逃げ出る際に、北京からこっそり台湾へ持ち逃げしたものと単純に考えていたが、識者の文物保護への情熱と並々ならぬ苦労、そしてその疎開、逃避行のダイナミックさに触れ、大いに感動したものだ。
故宮文物大移動(文物遷運)ならぬ大疎開をもう少し詳しくみてみると・・・
1、故宮博物院の設立
中華民国政府は、1925年、溥儀を紫禁城より追放し、城内の文物を接収、一般向けに展覧を開催。爾来歴代皇室と宮廷が所蔵していたコレクションが中華文化遺産として永く後世に伝えられ、今や台北や北京で鑑賞できるようになったこと、衆知の通り。
2、延々の文物疎開・逃避行
① 南遷
1931年(昭和6)の満州事変により、首都北平(北京)の情勢が極めて危うくなり、1933年2月より計五回に分けて、希代の文物計13,427箱と64包を上海の仏英租界地へ緊急避難させる。
1936年8月、突貫工事で南京朝天宮に建設していた故宮分院保存庫が竣工すると、三年半余り上海に仮置きしていた文物を上海租界から南京へ搬入。この保存庫は機械による温湿度制御が可能な三階建の鉄筋コンクリート造りで、そこでようやく安住の地を得る。
② 西遷
かくして安全安心(安全安心の文字上に・・・・をつける)を獲得したものの、1937年の盧溝橋事件の勃発によりまたもやの危機に陥り、再度、三つのルートに分散して避難させる。
● 一組目(南路) ロンドンでの中国芸術展の出展(1935.11〜1936.2)を終えて戻ってきた
80箱を第一便として運びだす。
湖北省漢口を経て長沙へ。さらに桂林を経由して貴州省貴陽に運んだ後、
さらに四川省巴県へ避難。
● 二組目(中路) 主として水路を利用した大量輸送が可能なルート。
湖北省漢口を経て宜昌へ。さらに四川省重慶、宜賓を経由し楽山へ避難。
● 三組目(北路) 主として陸路の輸送で困難を極めるルート。
江蘇省徐州、鄭州、西安 陝西省宝鶏へ。漢中を経て四川省成都へ。さらに峨嵋へ再避難。
抗日戦争期間中、国内外の展覧会には幾度か参加しながらも、出来るだけ奥地へということで、湖南省の長沙、湖北省宜昌、陝西省宝鶏へ避難するも、尚、安全安心には程遠いとし、最終的には四川省の中でも取り分け山深い三つの奥地に安住の地を求め逃避行を重ねたのである。
そして14年にも及ぶ抗日戦勝利の後、西遷した文物はまずは重慶に集結させ、その後、水路で南京に運び、全てを戻し終えたのが1947年年末。約10年ぶりの復員となった。
因みに、北京—上海の疎開距離はざっと1400km、上海—南京 約300km、南京—四川の三ルートは1500-2000km。東京—博多間の1000kmから見て、その総距離たるや、気の遠くなるような数字である。
③ 東遷
しかし、この安住はまたもや長くは続かない。
今度は国共内乱が激化、形勢が逆転し、国民党政府は文物を台湾へ移すことになる。
1948年末から1949年春、3回に分けて総数2972箱を台湾に移送し、暫時、台湾糖業股份有限公司台中製糖工場の倉庫等に一時保管。
翌1950年、台中霧峰の北溝山麓の地に文物倉庫が完成したのに伴い、すべての文物を北溝倉庫に移し、点検整理。
1965年、台北市外双渓に建設された新館(現在の故宮博物院)に移転され一般公開、以降現在に至る。
あれから70年!
昨今、台湾海峡の情勢が物々しくなりつつあるのが気になる。
中国民衆の殆どが、実におぞましい負の時代だったとする文化大革命の愚をまたもや起こさないと信じるが、戦争というものは大衆の平常心をいとも簡単に捻じ曲げ、変異させる魔力がある。故にひたすら、そういう戦争状態に陥らないことを望むばかりである。
【2021年11月末日 記】
2017年5月22日月曜日
舛添都知事に見る「恥」の文化欠落
保身のための事実否定・嘘から始まった嘘のそのまた上塗り。
今や単にメディアにとどまらず、都議会、さらには都下の市議会までもが不信感をつのらせているまさに四面楚歌状態にあるにも拘らず、しれーっとその座に座って居れるその神経というのはどこから来るのだろうか?
一言で言えば、塞外のモンゴル、朝鮮の食うか食われるかの厳しい狩猟系競争社会を生き延びてきた人間が維持している傍若無人文化ではなかろうか?
中原の農耕系漢族が培ってきたいわゆる「恥」文化は、鮮卑系北魏の侵入によって南方に追いやられ、その一部民衆がかろうじて日本にも移住した結果、日本にとどまっている。
2015年5月31日日曜日
天皇傘寿記念の打毬、母衣引
昨日、TV ニュースを見ていると、
天皇陛下の傘寿を記念する古式馬術会が、歴代3権代表者を招いて開かれたと報じていたが、その映像をみて吃驚!
どこかで見慣れた光景と同じなのだ。
騎手が着ているあのチンドン屋的な服装というか色合いが、まさに中国東北の田舎や内蒙古とかでみる色合いと同じだったのだ。
後で宮内庁のHPをチェックしてみて、改めて納得。
この打毬は7〜8世紀ごろに、中国から朝鮮、ないしは渤海から伝わったという東洋版Polo ということだ。
もう一つの母衣引(ほろひき)にしても、まさに北方騎馬民族の風習そのものだ。
古代日本の為政者の始まりというか、ヤマト王権者は渡来人だったとの思いを上塗りするようなニュース映像であった。
2014年12月2日火曜日
高句麗の古都を訪ねて ・・ その2 丸都(集安)
翌7日、集安の地元ガイドを別途追加で雇い、丸一日を当てて丸都の山城、国内城ほか、幾つかの史跡を巡る。
丸都は、第2代の瑠璃明王が隣国に在った扶余の圧力を避けるため、西暦3年、鴨緑江岸の丸都山の山城へ遷都したところである。その後、山を下り、平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、丸都時代の後期には専ら緊急避難目的として使用されたようである。
中腹には、緊急時の宮殿の跡地が廃墟となって遺っていた。
また、城の麓には、30数個もの古墳群がある。石墳あり、土盛り墳ありで、これは埋葬風俗の変遷なりや?! 5〜7世紀の王族や貴族のものとのことで、「山城下貴族墳」との碑石あり。
平城の方の遺跡は殆どなく、辛うじて幾つかの城壁らしきものが遺っているだけだった。
この国内城を出て東方へしばらく行ったところに、「将軍墳」という、第20代長寿王の大規模な石墳がある。長寿王といえば、彼の代の427年、父親の広開土王の南下政策の志を受けて、この丸都から平壌に遷都した王である。
因に中国では、その辺の成り上り者・劉裕に取って代わられた東晋が滅びたのが7年前の240年であり、その後、宋、斎、梁、陳と延命した南朝(都は建業)は、結局、589年に鮮卑系の楊堅(北周→隋)によって滅ぼされた。
まさに6〜7世紀はHi-Bridの鮮卑の天下の始まりであり、ツングース系の南進の始まりでもある(本稿のその1 参照)。
その後、すぐ近くの超有名な「広開土王(好太王)碑」へ行く。
かっては野ざらしであったが、今やガラス張りのショウケースに入れられて保護されているが、中へ入って観ることは可能だ。
いや〜、実にでかい!
どのようにしてここまで運んできたか、また、どのようにこんな重い石を立てたのか、しかも441年以来千数百年もの間、ずっと倒れないように立てておく技術たるや?!!
高さ6.9m 重さ37ton 隷書体の総文字数は1775
その内、解読可能数は1590字とのこと。
かっての日本の国内で、大和王建が高句麗を攻めたとか攻めないとか、国粋派を含む学者間で論争の激しかった一節
「・・百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」
それが、正面の第一面の8行目下段から9行目の中段にあることを認識し、なんとなく「観たぞ」との満足感に浸る。
* この解釈詳細についての論評は、松本清張の『空白の世紀』(講談社)が一番面白いと思う。
このあと市街地の方へ戻り、集安駅の近くの「禹山貴族墓地」を訪れた。
6〜7世紀の高句麗の晩期に造られた五つの古墳があって、そのなかの「五号墳」のみが公開されている。
石室内は写真撮影NGなので、今や手元のメモだけが頼りであるが、室内の大きさは大人数人ぐらいが入れる大きさで、壁面には、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の四大神が描かれている。それに、十二支
もある。
後で知ったことであるが、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳にもこの四大神があるとのこと。
高松塚古墳:7世紀末から8世紀初めに築造された古墳であり,石室内部(内法:奥行2.6メートル,幅1.0メートル,高さ1.1メートル)に星辰(星宿)図,日月像及び四神図,人物群像(女子群像,男子群像)が描かれた壁画古墳である。
四神の下に人身獣首の十二支像も描かれており、歴史的・学術的にも価値の高いものである。