ページ

2025年7月23日水曜日

 久々の上海今昔 その3


   近年に入っての大きな変化は、何といっても浦東である。
それまで上海といえば外灘を中心とした浦西のことであり、黄浦江の向こうは片田舎の農村であり、往来は渡し船と一本のトンネルのみ。自ずと話す言葉も京都弁と岸和田弁の違いみたいに、上海語とは大分違っていたのである。
それが1990年代の半ばごろから、対岸の陸家嘴を中心に高層ビルが立ち始め、南浦大橋が掛かり、1999年に浦東空港が開港し、更には2016年にはディズニーランドが開業となり、まさに面目一新となった。

  浦東空港から市街へは、地下鉄ありリニアモーターあり、今までのように空港での白タク的なタクシーに悩まされる心配もない。リニアーで浦西に行く場合は、黄浦江を渡る手前の龍陽路駅で乗り換えル必要があるが、地下鉄は一時間程の乗り換えなしで浦西中心地まで行けるのは便利で且つ安い。今回試しにリニアーに乗ってみたが、ほんの7−8分で終点に着いてしまい、快適ながら何となく欲求不満のような後味。
因みに、リニアの中国語「磁浮」がまさに読んで字の如く、磁力で浮くそのものだった(笑)
 
  私の現役時代にM社とこの浦東でのオフィスビル開発事業を推進していたこともあり、今回の十数年ぶりの浦東への降り立ちは感慨ひとしおであった。

  
                 1994年の浦東陸家嘴    
          竣工済みは東方明珠TV塔と一棟のオフィスビルのみ



2025年
当初デザイン




  中国最高層の上海タワー(上海中心)の竣工により首位の座を譲った日系の上海ワールドフィナンシャルセンター(環球金融中心)は、地元上海人の間で栓抜き(開瓶器)ビルといわれているが、さもありなん! できる前から私も一瞬にしてそのイメージを抱いたが、これについては確としたエピソードがある。
  当初のデザインはこのような四角形ではなく右側の丸形であったが、その形が日の丸を想定するということで許可されず、已むなく丸を四角にしたのである。まあ、いずれにせよ斬新というか風変わりなデザインには間違いない。



2025年の夜景
                





           浦東から外灘を望む約40年の今昔

2025年




1986年
















2025年7月21日月曜日

 久々の上海今昔 その2


  次なる驚きは、街中が綺麗になっていることだった。

以前は、ポリ袋や食べ物のカスが道路脇に散乱しているのが当たり前だったが、今やなし。
また、文化大革命の影響で軽視されていた文化財や建築物への保全が進んできていることだった。勿論あの伝統的なパジャマ姿のおばさんとかも影を潜めている。
  
  上海といえば外灘をぶらり、その後外灘の中山東一路より一本西の四川中路と福州路との交差点にある旧三井物産ビルを再訪した。
因みに、解放前の道路の呼称は北から数えて、大馬路(南京東路)、二馬路(九江路)、三馬路(漢口路)、四馬路(現福州路)なっていて、ディックミネのヒット曲「夜霧のブルース」に 
♪青い夜霧に灯影が紅い どうせおいらはひとり者 夢の四馬路か虹口の街か、、♪ 
とあるところ。

  行って吃驚! 
壁も綺麗に洗浄され、花崗岩の白とレンガの赤とのコントラストが映える。
また以前にはなかった「優秀歴史建造物」の看板が堂々と掲げられていて、その建造は1903年(明治36年)とある。
因みに、三井物産の海外第一号店は1877年(明治10年)の上海なのである。








  私が駐在していた1980年代後半の頃は、花崗岩であしらえた門柱の井桁三(トレードマーク)が削り取られ、記憶から消し去るように街中に沈みこんでいたし、訪れる私もなるべく周囲の目に止まらぬようこっそり、そそくさと写真に納めたものだったが、今や堂々である。


正面玄関 1985年



2025年


 また上海支店ゲストハウスは、他の国の迎賓館等とともに、開放後は瑞金賓館として運営されていたが、今回の訪問でインターコンチネンタルの運営となっていた。
クラシックな建物と緑あふれる庭園と芝生に包まれ面目一新、新たに建造された本館はまさに外観はクラシックだが内部は芸術的モダンスタイルである。
   
新造のインターコンチネンタルホテル本館


吹き抜けのロビー



解放前の物産上海支店ゲストハウス







                  



 久々の上海今昔 その1


  2024年末に中国渡航の短期ビザがようやく今年末までの限定付きで免除されたのを機に、十数年ぶりに上海を訪問。主目的は上海勤務時代のNS達と再会ではあったが、加えて上海今昔を肌で感じることでもあった。

  第一の驚きは、街中では殆ど上海語が聴かれず、路を訊いても役に立たないいわゆる外地人が圧倒的に増えていることだった。偶々乗り合わせたタクシーの運転手は崇明島(長江河口の島)からの出稼ぎで来たばかりで、土地勘も殆どなく、こちらが右だの左だの、指示しなければならない始末。新来の外地人がタクシーの運転手にありつける者はまだマシな部類で、大半の稼ぎ場所が宅配業となっていることだ。

  因みに、彼らの運転するのは自転車ではなくダッシュ力の優れた電動バイクなものだから、明らかにガソリン車を後塵に配し、また圧倒的な数で以って道路を席巻しているのである。おまけに、空いている歩道をハイスピードで通り抜けるものだから、歩行者には危険極まりない。

             宅配の電動バイクの大群               

  


         



  

  この宅配者のユニホームのキャッチコピーが秀逸!

        野菜買うのも瓜を買うのも、、全部言いつけてね

               お腹すいたの?

           安心して! 時間通り届くからね


 



  何故これほどに宅配が増えたのか? それはコロナ期のステイホームで宅配需要が増加したのと、内陸地方の仕事不足からの脱却で上海のような大都市圏への出稼ぎが増えたことが相乗効果となっている。更には、BYDに代表される蓄電池の技術発達・性能向上により、電動バイクが安価で手に入ることが拍車をかけている。要は数万円足らずのお金を持って上海に行けば、毎月数十万円以上稼げるというもの。

  注文する客の方もこれまた度を超えていて、それこそ醤油一本とか、西瓜一個とか、取り敢えず必要なものだけを頼むようだ。私が泊まっていた長期滞在者用のアパートメントホテルでは、そのフロントカウンター付近にはこの種宅配専用の受入棚も置かれていた。


         えっ! 大の大人が電動バイクではるばるこんな小さな一品を!





  

 

2025年6月6日金曜日

台北春遊 その2

またそこにある展示資料よると、倉庫建て替えより一足早い1913年に 新事務所ビルが竣工したとある。そしてその後さらに、1922年に近くへ移転新築。

すぐ隣にある勧業銀行(現みずほ銀行)はその10年後の1933年に竣工、商人らしく慎ましい安普請の当ビルとは対照的に、銀行のビルは石造りで誠に立派である。
また同ビルの襄陽路を挟んだ南側対面には、朝鮮総督府等をも設計した野村一郎による台湾総督府博物館(1915年竣工 現・国立台湾博物館)があり、往時が偲ばれる。



















   左奥が  旧・勧業銀行ビル





台北春遊 

久々に、避寒と肩凝りほぐしを目的に台北を訪問。

ほぼ10年ぶりの台湾だったが、一番大きな変化は:
① 以前は東京の6−7割だった諸物価がほぼ同額ないしは1−2割高であったことと、
②「衣食足りて礼節を知る」ではないが、ゴミが散らかっていた街の通りがすっかり綺麗になっていたこと
であった。

日中は地下鉄、バスを併用しての街歩きをメインに、取り分けノスタルジックな戦前の建物を観て廻った。
戦前の建物といえば、一に総督府、二に台北賓館、、、等いろいろあるが、元勤務先の倉庫、ビルには大きな感慨を覚える。

先ずは、1900年に設置した倉庫。
道路整備上、近くに移転させることになったため、現存しているのは新たに復元化された新築であったが、高らかに掲げらていた「井桁三」のShipping Markにビックリ! こんなに目立ってていいのかと思うぐらい。
というのも、最初の海外店であった上海のビルは、花崗岩でできた「井桁三」が削り取られていたのとは対照的であった為に。








内部は、商社ならぬ瀟酒な喫茶店として活用されていた。
その展示資料によると、1900年にまずは倉庫兼事務所とした出発した模様。
1900年といえば、辛亥革命以前の清朝末期の頃だ。
因みにMBKの海外第1号店は1877(明治10年)の上海支店である。

更にそこに展示してあった資料(大正3年・1914年の社報)によると新たに2階建倉庫の建設を認可とある。いわゆる業務拡張による事務所と倉庫の分離である。






                                                 




2024年11月30日土曜日

玄奘と円仁 ・・・岩槻・慈恩寺を訪ねて

彼岸明けの9月の週末、以前から気になっていた岩槻(さいたま市岩槻区)の慈恩寺を訪れた。

 

慈恩寺といえば、私にとっては何度か訪れている中国西安の大慈恩寺が連想され、それがなんのゆかりで埼玉にもあるのかとの思いであった。

事前の下調べによると、岩槻の慈恩寺は、西安の大慈恩寺(隋代の建造)より200年ほど後年の天長元年(824年)に、円仁794~864年)により開かれた寺院とのこと。

 

円仁を概略すると、彼は下野國(栃木県)の人で、空海や最澄らより少しあとの平安前期の僧。15歳で比叡山の最澄に師事、45歳になって最後の遣唐使船(838年)で唐に留学。そして帰国後には、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺等も開山したといわれている。

真言宗、天台宗だの、慈覚大師だの仏教に門外漢の私にはただ、彼が入唐から帰国までの9年半を日記スタイルできめ細かく記した『入唐求法巡礼行記』の著者であることに興味を惹かれたのである。

この日記スタイルの中国旅行記は日本では案外知られてないが、当時の唐代の中国事情を忠実に記述していて、それから400年後の元代の中国事情を記したあのマルコ・ポーロの『東方見聞録』よりはるかにリアル感があり、長年中国駐在していた私には親近感を覚える。

余談ながら、1960年代に駐日米国大使であったライシャワー氏はこの『入唐求法巡礼行記』を博士論文のテーマとしている。

 

岩槻訪問の関心事の一つは、岩槻の慈恩寺はどういう風景、風格をしたお寺かなというもの。

当然、広大な大陸風土の中の西安大慈恩寺とは趣を異にすることへの心構えはできていたので、その落差については大した驚きはなかった。しかし、週末にも拘わらず、参拝者は私のほかに誰もなし。過度な期待は毛頭しないものの、寺全体はなんとなく寂れた感が否めない。



                岩槻の慈恩寺

 




 

 関心事の二つ目は、あの『西遊記』の三蔵法師こと玄奘602~664年)の遺骨の一部が安置されている寺とのこと。どうしてまた、玄奘の遺骨が???

 

その所以は、第二次世界大戦のさなかの1942年(昭和17年)、南京の中華門外に駐屯していた日本軍が稲荷神社を建立すべく丘を整地していたおり石棺を発掘、そのなかの玄奘三蔵法師の頂骨を発見した由。そしてその遺骨は蒋介石南京政府に還付し、一部を日本へ持ち出し、分骨とされた。とりあえず芝増上寺に安置されたが、戦後になり三蔵法師と縁の深いこの岩槻の慈恩寺が最適地だとして奉安されたらしい。

この頂骨は更に、1975年蒋介石時代の中華民国台湾へ、1981年に奈良の薬師寺へと分骨されている。薬師寺では慈恩寺同様に、その際新たに「玄奘三蔵院伽藍」が建造されたが、201011月に薬師寺を訪れた印象は、その風格といい、観光客の顔ぶれといい、なんとなくしっくりこず、平山郁夫の「大唐西域壁画」がやけに目立ったような覚えがある。


 

                  薬師寺の玄奘三蔵院伽藍

 

 




 この三蔵法師こと玄奘さん、中国明代に書かれた一種のアドベンチャー長編小説『西遊記』の中で登場はしてくるが、スーパーマン的能力を発揮する「孫悟空」の主役的存在感があまりにも強いために脇役に追いやられていて、日本では知名度が今一つの感である。しかし、歴史上では彼こそ仏教求法・伝来の偉大なる開拓者であり、貢献者であるのだ。

因みに、この三蔵というのは固有名詞ではない。「玄奘塔にある玄奘とは三蔵法師のことである」と思い込んでいる人も多いが、三蔵とは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶に与えられる尊称、すなわち職名なのである。

 

  先に触れたように、玄奘(姓は陳)は隋代の生れ。唐代の貞観3年(629年)、なんと27歳の若さで、仏教求法のために国禁を犯して出国。西安から一路西へ西へと河西回廊、天山北路を歩き、バーミヤン(アフガニスタン)、ペシャワール(パキスタン)を経て天竺(インド)に渡った。その行程は、荒漠たる熱砂のタクラマカン砂漠あり、万年雪の覆うパミール高原あり、並大抵のものでなく、そこを2年もかけて徒歩で行ったとはまさに超人的強者!そしてナーランダ寺院で5年にわたり仏法を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て、貞観19年(645年)、膨大な経典を長安に持ち帰ったのである。 

 

この遠隔地への、かつ長期の留学旅程はなんと、あしかけ17年という長期間であり、それを記した『大唐西域記』は旅行記というより当時の貴重な地理調査書といえるものである。また、帰国後の人生は亡くなるまでひたすら、経典の整理、翻訳に没頭したというのだから、恐れ入る。いくら時代が違うといってもその熱意と強靭な根性は、敬服を通り越して呆れんばかりである。

 

円仁といい、玄奘といい、さらには何度かの挑戦の上日本への入国を成し遂げた(753年)鑑真和上といい、新しいもの、より高度なものを求め、また強い使命感を持って国を超え足元の悪い長丁場を旅していくその情熱と体力、忍耐力には頭が下がる。

近頃歳をとったもんだな~とか、加齢でどうたらとか、言えたものではない。特に、留学や海外勤務を避け、何事にも汗をかかず安易にやり過ごすという近年の風潮は、一人間としての怠惰、後退ではないかと私には写る。

 

この岩槻訪問で意外だったのは、西安のシンボルとして大慈恩寺に聳え立つ大雁塔を模した玄奘塔が慈恩寺の境内にはなく、そこから数百メートルほど離れた、田んぼに囲まれた高台に建立されていたことである。

西安の大雁塔は、玄奘が持ち帰った経典が散逸・消失せぬよう保管の為に、時の高宗皇帝に陳情して建てられたもので、内部は高層階まで登れるようになっている。一方、岩槻の玄奘塔は戦後になってから追加的に建てられたもので、圧倒的なスケールの差があることやむを得ないが、せめて慈恩寺の境内か隣接地に建立すればよかったのにと、些か悔やまれる。

 

興味半分に、西安の大雁塔と岩槻の玄奘塔を並べてみると・・・

そのスケール、周辺の自然環境等、受け取るイメージは全く違うが、塔と玄奘さんの像との対比アングルは、結構上手く似せていることに感心する。

 


             西安の大雁塔と玄奘像

 

 


 


                   岩槻の玄奘塔と像





 

 

玄奘塔を参観したあとの帰り道を歩いていると、その道端でお地蔵さんと巡り会う。なんとなく、玄奘像よりこちらの方がずっと、土地の人に愛され、その風土、文化にしっかりと根ざしているようなのが、玄奘像と対照的であった。

やはり日本人には、唐人の玄奘さんよりお地蔵さんか!



















2022年1月10日月曜日

灯火親しむの候・・ 『 疎開 』 を憶う

 

 今夏のある日、NHK TVで新日本風土記「東京の地下」という番組を、みる機会があった。

近年の驚愕的発展を遂げる地下商店街に始まり、地球3周分にも相当するという地下鉄13路線、有機野菜栽培の農場等、誠に印象深いルポ作品であった。

その一つとして、あの永田町の国会図書館の新館地下書庫も紹介され、

それはなんと8階という前代未聞の深さだ。

その地下書庫はほとんど、戦前に上野の帝国図書館から長野へ疎開搬出され、

そして戦後になって戻ってきた書籍の保管庫に当てられているとのこと。


 『ええっ! 書籍も疎開してたのか〜 』

恥ずかしい哉、戦後生まれの私は、この歳になって初めて知った次第。

 

 疎開といえば、戦前生まれの人には様々な思い出があるだろうが、

私には親から聞かされた苦労話から想像を巡らす程度。

ましてや平成生まれの世代にはほとんど死語と化しているのではないだろうか?

 

 因みに、国会図書館蔵書にあった「長野県立図書館ニ搬出セル疎開図書目録」によると、「1943年(昭和18)から終戦前後までに、30万冊に及ぶ大規模な疎開を実施。

その疎開先は長野県立飯山高等女学校、山形県下の個人宅土蔵、帝室博物館地下室などであった」とある。

更に、「第四次図書地方疎開ニ関スル覚書」には、「終戦間際、8万冊を超える第四次図書地方疎開が計画され、疎開先の山形へ向けて、秋葉原駅への搬出を完了した」とあることより、約40万冊を疎開させたということだ。

 

 色々読み漁るうち、都立日比谷図書館も戦禍を逃れるために、

1944年から45年にかけ蔵書40万冊を疎開させたということを知った。

それは帝国図書館とは違い、図書館員を始め都立一中(現・日比谷高校)の中学生たちが、

リュックや大八車を押して、50キロ離れた奥多摩や埼玉県志木市に何度も足を運ぶという過酷を極める大疎開であったらしい。


 その後、昭和205月、焼夷弾によって日比谷図書館は全焼、蔵書20万冊が図書館と運命をともにしたが、疎開した40万冊の本は助かったのである。

この辺の事情は「疎開した40万冊の図書」という題で岩波が映画化(2013年)している。


 


 ふと、中国の故宮文物の疎開が思い出される。


 故宮文物は、戒厳令下の台湾にホームステイしていた大学4年の時が最初の見学。

まだ青臭い未成熟青年には骨董品的な文物への興味、知識も薄く、大した感動もなし。

ただ、『蒋介石はよくもまぁ、こんなものを大陸から持ち逃げしてきたもんだわい』とその貪欲さに呆れかえった程度の感想。

 

 文物参観2回目は、開放間もない1983年の北京であった。

故宮の一角に設営された珍宝館に入場無料で入ったはいいが、100点にも満たないぐらいの陳列物の少なさに唖然。文化大革命の余韻の残る状況下とはいえ、まさにもぬけの殻的な寂寥感溢れる有様であった。

 

 ところが、職を引いてからの晩年、陳舜臣の「青玉香炉」(1969年直木賞)を読む中で、

あの故宮文物は、戦禍から文化財保を守るという篤い心から広大な中国大陸内を転々と避難・疎開させていたことを知らされたのである。

てっきり1949年に蒋介石自らが台湾へ逃げ出る際に、北京からこっそり台湾へ持ち逃げしたものと単純に考えていたが、識者の文物保護への情熱と並々ならぬ苦労、そしてその疎開、逃避行のダイナミックさに触れ、大いに感動したものだ。


 故宮文物大移動(文物遷運)ならぬ大疎開をもう少し詳しくみてみると・・・

1、故宮博物院の設立

中華民国政府は、1925年、溥儀を紫禁城より追放し、城内の文物を接収、一般向けに展覧を開催。爾来歴代皇室と宮廷が所蔵していたコレクションが中華文化遺産として永く後世に伝えられ、今や台北や北京で鑑賞できるようになったこと、衆知の通り。

 

2、延々の文物疎開・逃避行

 ① 南遷

 1931年(昭和6)の満州事変により、首都北平(北京)の情勢が極めて危うくなり、19332月より計五回に分けて、希代の文物計13,427箱と64を上海の仏英租界地へ緊急避難させる。

1936年8月、突貫工事で南京朝天宮に建設していた故宮分院保存庫が竣工すると、三年半余り上海に仮置きしていた文物を上海租界から南京へ搬入。この保存庫は機械による温湿度制御が可能な三階建の鉄筋コンクリート造りで、そこでようやく安住の地を得る。

 ② 西遷

 かくして安全安心(安全安心の文字上に・・・・をつける)を獲得したものの、1937年の盧溝橋事件勃発によりまたもやの危機に陥り、再度、三つのルートに分散して避難させる。 

 

 ● 一組目(南路) ロンドンでの中国芸術展の出展(1935.111936.2)を終えて戻ってきた

  80箱を第一便として運びだす。

  湖北省漢口を経て長沙へ。さらに桂林を経由して貴州省貴陽に運んだ後、

  さらに四川省巴県へ避難。

 

 ● 二組目(中路) 主として水路を利用した大量輸送が可能なルート。

  湖北省漢口を経て宜昌へ。さらに四川省重慶、宜賓を経由し楽山へ避難。

 

 ● 三組目(北路) 主として陸路の輸送で困難を極めるルート。

  江蘇省徐州、鄭州、西安 陝西省宝鶏へ。漢中を経て四川省成都へ。さらに峨嵋へ再避難。

 

 

 抗日戦争期間中、国内外の展覧会には幾度か参加しながらも、出来るだけ奥地へということで、湖南省の長沙、湖北省宜昌、陝西省宝鶏へ避難するも、尚、安全安心には程遠いとし、最終的には四川省の中でも取り分け山深い三つの奥地に安住の地を求め逃避行を重ねたのである。

そして14年にも及ぶ抗日戦勝利の後、西遷した文物はまずは重慶に集結させ、その後、水路で南京に運び、全てを戻し終えたのが1947年年末。約10年ぶりの復員となった。

 

 因みに、北京—上海の疎開距離はざっと1400km、上海—南京 約300km、南京—四川の三ルートは1500-2000km。東京—博多間の1000kmから見て、その総距離たるや、気の遠くなるような数字である。





 

 ③ 東遷

 しかし、この安住はまたもや長くは続かない。

今度は国共内乱が激化、形勢が逆転し、国民党政府は文物を台湾へ移すことになる。

1948年末から1949年春、3回に分けて総数2972箱を台湾に移送し、暫時、台湾糖業股份有限公司台中製糖工場の倉庫等に一時保管。

 

 翌1950年、台中霧峰の北溝山麓の地に文物倉庫が完成したのに伴い、すべての文物を北溝倉庫に移し、点検整理。

 1965年、台北市外双渓に建設された新館(現在の故宮博物院)に移転され一般公開、以降現在に至る。

 

 

 あれから70年!


 昨今、台湾海峡の情勢が物々しくなりつつあるのが気になる。

中国民衆の殆どが、実におぞましい負の時代だったとする文化大革命の愚をまたもや起こさないと信じるが、戦争というものは大衆の平常心をいとも簡単に捻じ曲げ、変異させる魔力がある。故にひたすら、そういう戦争状態に陥らないことを望むばかりである。

【2021年11月末日 記】