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2022年1月10日月曜日

灯火親しむの候・・ 『 疎開 』 を憶う

 

 今夏のある日、NHK TVで新日本風土記「東京の地下」という番組を、みる機会があった。

近年の驚愕的発展を遂げる地下商店街に始まり、地球3周分にも相当するという地下鉄13路線、有機野菜栽培の農場等、誠に印象深いルポ作品であった。

その一つとして、あの永田町の国会図書館の新館地下書庫も紹介され、

それはなんと8階という前代未聞の深さだ。

その地下書庫はほとんど、戦前に上野の帝国図書館から長野へ疎開搬出され、

そして戦後になって戻ってきた書籍の保管庫に当てられているとのこと。


 『ええっ! 書籍も疎開してたのか〜 』

恥ずかしい哉、戦後生まれの私は、この歳になって初めて知った次第。

 

 疎開といえば、戦前生まれの人には様々な思い出があるだろうが、

私には親から聞かされた苦労話から想像を巡らす程度。

ましてや平成生まれの世代にはほとんど死語と化しているのではないだろうか?

 

 因みに、国会図書館蔵書にあった「長野県立図書館ニ搬出セル疎開図書目録」によると、「1943年(昭和18)から終戦前後までに、30万冊に及ぶ大規模な疎開を実施。

その疎開先は長野県立飯山高等女学校、山形県下の個人宅土蔵、帝室博物館地下室などであった」とある。

更に、「第四次図書地方疎開ニ関スル覚書」には、「終戦間際、8万冊を超える第四次図書地方疎開が計画され、疎開先の山形へ向けて、秋葉原駅への搬出を完了した」とあることより、約40万冊を疎開させたということだ。

 

 色々読み漁るうち、都立日比谷図書館も戦禍を逃れるために、

1944年から45年にかけ蔵書40万冊を疎開させたということを知った。

それは帝国図書館とは違い、図書館員を始め都立一中(現・日比谷高校)の中学生たちが、

リュックや大八車を押して、50キロ離れた奥多摩や埼玉県志木市に何度も足を運ぶという過酷を極める大疎開であったらしい。


 その後、昭和205月、焼夷弾によって日比谷図書館は全焼、蔵書20万冊が図書館と運命をともにしたが、疎開した40万冊の本は助かったのである。

この辺の事情は「疎開した40万冊の図書」という題で岩波が映画化(2013年)している。


 


 ふと、中国の故宮文物の疎開が思い出される。


 故宮文物は、戒厳令下の台湾にホームステイしていた大学4年の時が最初の見学。

まだ青臭い未成熟青年には骨董品的な文物への興味、知識も薄く、大した感動もなし。

ただ、『蒋介石はよくもまぁ、こんなものを大陸から持ち逃げしてきたもんだわい』とその貪欲さに呆れかえった程度の感想。

 

 文物参観2回目は、開放間もない1983年の北京であった。

故宮の一角に設営された珍宝館に入場無料で入ったはいいが、100点にも満たないぐらいの陳列物の少なさに唖然。文化大革命の余韻の残る状況下とはいえ、まさにもぬけの殻的な寂寥感溢れる有様であった。

 

 ところが、職を引いてからの晩年、陳舜臣の「青玉香炉」(1969年直木賞)を読む中で、

あの故宮文物は、戦禍から文化財保を守るという篤い心から広大な中国大陸内を転々と避難・疎開させていたことを知らされたのである。

てっきり1949年に蒋介石自らが台湾へ逃げ出る際に、北京からこっそり台湾へ持ち逃げしたものと単純に考えていたが、識者の文物保護への情熱と並々ならぬ苦労、そしてその疎開、逃避行のダイナミックさに触れ、大いに感動したものだ。


 故宮文物大移動(文物遷運)ならぬ大疎開をもう少し詳しくみてみると・・・

1、故宮博物院の設立

中華民国政府は、1925年、溥儀を紫禁城より追放し、城内の文物を接収、一般向けに展覧を開催。爾来歴代皇室と宮廷が所蔵していたコレクションが中華文化遺産として永く後世に伝えられ、今や台北や北京で鑑賞できるようになったこと、衆知の通り。

 

2、延々の文物疎開・逃避行

 ① 南遷

 1931年(昭和6)の満州事変により、首都北平(北京)の情勢が極めて危うくなり、19332月より計五回に分けて、希代の文物計13,427箱と64を上海の仏英租界地へ緊急避難させる。

1936年8月、突貫工事で南京朝天宮に建設していた故宮分院保存庫が竣工すると、三年半余り上海に仮置きしていた文物を上海租界から南京へ搬入。この保存庫は機械による温湿度制御が可能な三階建の鉄筋コンクリート造りで、そこでようやく安住の地を得る。

 ② 西遷

 かくして安全安心(安全安心の文字上に・・・・をつける)を獲得したものの、1937年の盧溝橋事件勃発によりまたもやの危機に陥り、再度、三つのルートに分散して避難させる。 

 

 ● 一組目(南路) ロンドンでの中国芸術展の出展(1935.111936.2)を終えて戻ってきた

  80箱を第一便として運びだす。

  湖北省漢口を経て長沙へ。さらに桂林を経由して貴州省貴陽に運んだ後、

  さらに四川省巴県へ避難。

 

 ● 二組目(中路) 主として水路を利用した大量輸送が可能なルート。

  湖北省漢口を経て宜昌へ。さらに四川省重慶、宜賓を経由し楽山へ避難。

 

 ● 三組目(北路) 主として陸路の輸送で困難を極めるルート。

  江蘇省徐州、鄭州、西安 陝西省宝鶏へ。漢中を経て四川省成都へ。さらに峨嵋へ再避難。

 

 

 抗日戦争期間中、国内外の展覧会には幾度か参加しながらも、出来るだけ奥地へということで、湖南省の長沙、湖北省宜昌、陝西省宝鶏へ避難するも、尚、安全安心には程遠いとし、最終的には四川省の中でも取り分け山深い三つの奥地に安住の地を求め逃避行を重ねたのである。

そして14年にも及ぶ抗日戦勝利の後、西遷した文物はまずは重慶に集結させ、その後、水路で南京に運び、全てを戻し終えたのが1947年年末。約10年ぶりの復員となった。

 

 因みに、北京—上海の疎開距離はざっと1400km、上海—南京 約300km、南京—四川の三ルートは1500-2000km。東京—博多間の1000kmから見て、その総距離たるや、気の遠くなるような数字である。





 

 ③ 東遷

 しかし、この安住はまたもや長くは続かない。

今度は国共内乱が激化、形勢が逆転し、国民党政府は文物を台湾へ移すことになる。

1948年末から1949年春、3回に分けて総数2972箱を台湾に移送し、暫時、台湾糖業股份有限公司台中製糖工場の倉庫等に一時保管。

 

 翌1950年、台中霧峰の北溝山麓の地に文物倉庫が完成したのに伴い、すべての文物を北溝倉庫に移し、点検整理。

 1965年、台北市外双渓に建設された新館(現在の故宮博物院)に移転され一般公開、以降現在に至る。

 

 

 あれから70年!


 昨今、台湾海峡の情勢が物々しくなりつつあるのが気になる。

中国民衆の殆どが、実におぞましい負の時代だったとする文化大革命の愚をまたもや起こさないと信じるが、戦争というものは大衆の平常心をいとも簡単に捻じ曲げ、変異させる魔力がある。故にひたすら、そういう戦争状態に陥らないことを望むばかりである。

【2021年11月末日 記】





 

 

2017年5月22日月曜日

舛添都知事に見る「恥」の文化欠落

舛添都知事のかくもせこい公私混同発覚後の一連のエクスキューズ、
保身のための事実否定・嘘から始まった嘘のそのまた上塗り。

今や単にメディアにとどまらず、都議会、さらには都下の市議会までもが不信感をつのらせているまさに四面楚歌状態にあるにも拘らず、しれーっとその座に座って居れるその神経というのはどこから来るのだろうか?

一言で言えば、塞外のモンゴル、朝鮮の食うか食われるかの厳しい狩猟系競争社会を生き延びてきた人間が維持している傍若無人文化ではなかろうか?

中原の農耕系漢族が培ってきたいわゆる「恥」文化は、鮮卑系北魏の侵入によって南方に追いやられ、その一部民衆がかろうじて日本にも移住した結果、日本にとどまっている。

2015年5月31日日曜日

天皇傘寿記念の打毬、母衣引

 昨日、TV ニュースを見ていると、
天皇陛下の傘寿を記念する古式馬術会が、歴代3権代表者を招いて開かれたと報じていたが、その映像をみて吃驚! 
 どこかで見慣れた光景と同じなのだ。
騎手が着ているあのチンドン屋的な服装というか色合いが、まさに中国東北の田舎や内蒙古とかでみる色合いと同じだったのだ。
 後で宮内庁のHPをチェックしてみて、改めて納得。
この打毬は7〜8世紀ごろに、中国から朝鮮、ないしは渤海から伝わったという東洋版Polo ということだ。




 

 もう一つの母衣引(ほろひき)にしても、まさに北方騎馬民族の風習そのものだ。




 古代日本の為政者の始まりというか、ヤマト王権者は渡来人だったとの思いを上塗りするようなニュース映像であった。




2014年12月2日火曜日

高句麗の古都を訪ねて ・・ その2 丸都(集安)

 五女山城を下り、3時過ぎに桓仁を出て、その日の宿泊地・集安には夜の7時頃着いた。道中は山道の連続で、舗装状態も悪く、上下揺れを頻繁に強いられ、着いた時は腰痛寸前であった。
 集安の人口24万人とか、やっとこさ深い山奥からそこそこの都会に出てきた安心感と、投宿の「香港城暇日大酒店」のFacilityの良さで、まさに一息ついた。


 翌7日、集安の地元ガイドを別途追加で雇い、丸一日を当てて丸都の山城、国内城ほか、幾つかの史跡を巡る。

 丸都は、2代の瑠璃明王が隣国に在った扶余の圧力を避けるため、西暦3年、鴨緑江岸の丸都山の山城へ遷都したところである。その後、山を下り、平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、丸都時代の後期には専ら緊急避難目的として使用されたようである。


周囲約7kmあるという城壁の多くが遺っている


物見要塞跡

山頂より国内城(平城)を望む



 中腹には、緊急時の宮殿の跡地が廃墟となって遺っていた。
 また、城の麓には、30数個もの古墳群がある。石墳あり、土盛り墳ありで、これは埋葬風俗の変遷なりや?! 5〜7世紀の王族や貴族のものとのことで、「山城下貴族墳」との碑石あり。




 平城の方の遺跡は殆どなく、辛うじて幾つかの城壁らしきものが遺っているだけだった。






 
 この国内城を出て東方へしばらく行ったところに、「将軍墳」という、第20代長寿王の大規模な石墳がある。長寿王といえば、彼の代の427年、父親の広開土王の南下政策の志を受けて、この丸都から平壌に遷都した王である。

 因に中国では、その辺の成り上り者・劉裕に取って代わられた東晋が滅びたのが7年前の240年であり、その後、宋、斎、梁、陳と延命した南朝(都は建業)は、結局、589年に鮮卑系の楊堅(北周→隋)によって滅ぼされた。
 
 まさに6〜7世紀はHi-Bridの鮮卑の天下の始まりであり、ツングース系の南進の始まりでもある(本稿のその1 参照)。


長寿王の将軍塚



 その後、すぐ近くの超有名な「広開土王(好太王)碑」へ行く。
 かっては野ざらしであったが、今やガラス張りのショウケースに入れられて保護されているが、中へ入って観ることは可能だ。

 いや〜、実にでかい!
 どのようにしてここまで運んできたか、また、どのようにこんな重い石を立てたのか、しかも441年以来千数百年もの間、ずっと倒れないように立てておく技術たるや?!!
 
 高さ6.9m 重さ37ton 隷書体の総文字数は1775
その内、解読可能数は1590字とのこと。
  

 
 かっての日本の国内で、大和王建が高句麗を攻めたとか攻めないとか、国粋派を含む学者間で論争の激しかった一節

「・・百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民


それが、正面の第一面の8行目下段から9行目の中段にあることを認識し、なんとなく「観たぞ」との満足感に浸る。

 
* この解釈詳細についての論評は、松本清張の『空白の世紀』(講談社)が一番面白いと思う。


 

 このあと市街地の方へ戻り、集安駅の近くの「禹山貴族墓地」を訪れた。

 6〜7世紀の高句麗の晩期に造られた五つの古墳があって、そのなかの「五号墳」のみが公開されている。

 石室内は写真撮影NGなので、今や手元のメモだけが頼りであるが、室内の大きさは大人数人ぐらいが入れる大きさで、壁面には、東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の四大神が描かれている。それに、十二支
もある。


 

後で知ったことであるが、奈良の高松塚古墳やキトラ古墳にもこの四大神があるとのこと。


《文化庁のHPより》
高松塚古墳:7世紀末から8世紀初めに築造された古墳であり,石室内部(内法:奥行2.6メートル,幅1.0メートル,高さ1.1メートル)に星辰(星宿)図,日月像及び四神図,人物群像(女子群像,男子群像)が描かれた壁画古墳である。

キトラ古墳:7世紀末頃の壁画古墳。古墳の天井に描かれている天文図は東アジア最古の現存例であり、青龍・白虎・玄武・朱雀の四神すべてが現存している例は国内初。
 四神の下に人身獣首の十二支像も描かれており、歴史的・学術的にも価値の高いものである。




 





高句麗の古都を訪ねて ・・ その1 卒本(桓仁)


 Blog Upが延び延びとなったが、初秋の9月初め、友人二人と中国の東北省にある高句麗の古都 2カ所を訪ねた。

 一つは高句麗初期の都城である卒本(五女山)城(現在 遼寧省本渓市桓仁満族自治県)と、もう一つは高句麗前期の丸都城(現在の吉林省集安市)である。

 こんなマイナーな場所に何故ってということだが、最近になって、この古都が世界文化遺産に登録されていることを知り、山岳の僻地であってもそれなりの治安が維持されていて、個人旅行が可能だと思われること、また近年、東アジア関連の歴史本を読みだしている中で、大和王権の主体者はこの高句麗系統ではないかと思うようになったからである。

 因に、高句麗は、朝鮮最古歴史書「三国史記」に依れば、紀元前37、朱蒙(Zhu Meng)こと、東明聖王により建国され、卒本(五女山)城を都とする。
 
 始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙(一云鄒牟、一云衆解)。


 その後の西暦3、第二代瑠璃明王のとき、鴨緑江沿岸の丸都山城(集安)に遷都。
 そして、427平壌に再び遷都し、668新羅連合軍によって滅亡したとのこと。

 まさに山岳地帯での狩猟生活をベースとしていたツングース系民族の高句麗王権は、権力の強大化、人口の増加とともにより安定的な平地での農耕生活へとシフトしていったのである。
 またこの丸都、平壌時代というのは、漢の滅亡、三国分裂、南北朝へと中国の分裂、弱体化が進行した3〜6世紀であり、北方民族の南下が東アジア全体に吹き荒れた時代でもある。


 私感ではあるが、鮮卑族(種族系統は不明であるが、トルコ、モンゴル、ツングースのHi-Brid系でなないか?!)があの大国・中国を征服し隋・唐王朝を建てたことも、高句麗の南進に大きな影響を与えたのではないかと思う。

 それに、ツングース系というのは、モンゴル高原の大草原地帯を生活基盤として専ら遊牧を営むモンゴル系と違い、その東方の山岳地帯(現在の東北三省)を根城に定地狩猟と農耕をベースにした柔軟な頭脳と高い環境適応能力を備えている人種ではないかと思えるのだ。

 近世、中国の清朝を構築した女真がツングース系であることはつとに有名であるが、それ以外にも歴史上に登場するツングース系民族・国家と考えられているものとして、8〜9世紀靺鞨(渤海、さらに遡る1〜7世紀の高句麗を始め、粛慎 勿吉 穢貊 扶余 沃沮 百済などである。
 
 日本の大和王権は、この高句麗(&百済)の有力者の手により出来上がったのではないかと思われる。加えて、唐、新羅の挟み撃ちによる百済の滅亡(660年)や高句麗(668年)の滅亡の前後に、多くの一般市民(難民)が日本に渡ってきたことは想像に難くない。

 日本の地図をひっくり返してみると、北方の丸都、平壌から対馬、壱岐を経由して倭国(九州一帯)、さらには瀬戸内海を通り、難波津から大和川を遡る奈良飛鳥へのルートがなんとなく無理のない自然の通路のように見えてくるのが不思議である。

 



                                                              
   そして701年の大宝律令、710年の平城京遷都、720年の日本書紀編纂へと日本の歴史が流れていく。

        ー ー ー ー ー
 


 9月4日、成田から瀋陽に入り、清王朝の始祖・愛新覚羅ヌルハチの陵墓である昭陵をはじめ、瀋陽故宮博物院、張氏帥府(張作霖・学良の住居跡)などを、2泊3日で歩き回る。

 9月6日の朝8:00、現地ガイドと運転手に乗っかり、瀋陽より東方の桓仁に昼過ぎに着き、農民経営のレストランで食した後、五女山城に登る。

 その名の通り、五女山という山に築かれた山城であり、山上には、城壁、石塁等が遺されていて、高句麗建設の最初の卒水城に比定されている
 






頂上から見る集落地帯




集落から見る五女山城



 桓仁を3時過ぎに出て、その日の宿泊地・集安に向かう。


 * Google Map から切り出した高句麗の南進の三都:卒本、丸都、平壌の航空写真(縮尺は三枚とも同率)を揚げておく。
 卒本と平壌は、湾曲した河川が酷似。


五女山城は画面の右端上部 河川は 渾江




丸都山城は画面の左端上部 国内城はその下部
 河川は鴨緑江




平壌 河川は大同江